続・岡本合戦の年数問題
松 本 敏 幸
はじめに
「よど第十七号」に『岡本合戦の年数問題』を寄稿しましたが、事は重大だけに再び筆を執ります。
岡本合戦の年数に関して、平成十年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第三号』が「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」と述べた事に対し、注記『伊豫史談一一三号』『愛媛県史』が「天正七年説」の根拠になっていない事は論証しましたが、それより深刻な問題が昭和四十四年発行『愛媛県編年史』にあります。
そこで今回は、『愛媛県編年史』の性格と問題点を指摘しながら岡本合戦関係史料を批判します。
第一章 『愛媛県編年史』の性格
『愛媛県編年史』は河野氏史料優先です。六五頁の天正七年の要約に「長宗我部氏の将久武親信、山田外記ら宇和郡に来襲して岡本城を攻める、河野通賢・土居清良ら力戦してこれを敗走させる」とあるのは河野氏史料だけが主張している事であり、『清良記』では通賢こそが土佐に内通して岡本城を盗み取らせた張本人としています。この二者の関係は明らかに矛盾していますが、無批判に河野氏史料を採用しているのが『愛媛県編年史』といえます。
事実に目を向けてみれば、河野通賢の岡本城は合戦以後に土居清良の支城となり、その麓は土居垣内村と呼ばれます。もし通賢が応戦していれば、どんな理由があろうと土居の城にはならなかったでしょう。ここに一つの結論が見えます。
第二章 『愛媛県編年史』の問題点
『愛媛県編年史』は、岡本合戦の天正七年説を主張する為の編集となっています。「予陽河野家譜」から始まり、次に「伊予史談一一三号」で天正七年説の根拠にされた「緒方文書」が並び、後に続く「土居文書」や「清良記」には(天正七年カ)という注釈が付されます。そして、土佐史料である「元親記」や「長元物語」が並ぶのですが何かがおかしい。「予陽河野家譜」は成立年も作者も不明な上、岡本合戦の当事者でもありません。天正七年説ありきとする為だけの編集は、次に紹介する「土佐国編年紀事略」の扱いに非常に深刻な問題を残しています。
〔土佐国編年紀事略〕
竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書二、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札二至テ初メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年(天正七年)二俊光戦死セシヲ其子親父二継モノ疑ナキ歟、故二佐竹系図二ヨツテ七年トス、
元享院蔵古文書二、去年天正六戊寅四月、従土州諸軍勢発足之砌、以貴院御才覚、被仰調候而、山内俊光公・津野親房公、却而為静狼藉与放火、被加警固、寺家安全之段、自他之覚此事総而為謝貴院大功念、(中略)
天正八年八月廿九日 竜沢俊派(花押)
進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下
(『愛媛県編年史・五集』七五頁)
一見して何を述べたいか不明な文書ですが、岡本合戦の年数を考察した文書だと思えば、文末の「天正八年」という年数を見て、岡本合戦が天正九年に起きた可能性などあり得ないという印象を受けます。
ところが実際はそうではなく、前半は『土佐国編年紀事略』の作者の考察であり、江戸時代後期の文書です。そこに天正八年の文書を追記して、あたかも同じ一つの文書であるかのように見せているのです。しかも、別々の頁にある文書を抜粋し、前後を逆に入れ替えて並べており、このような史料の扱い方には疑問を禁じ得ません。特に前述のような誤解を招く恐れがある場合は、今からでも公に訂正をして然るべきです。
時の愛媛県知事は久松定武、教育委員長は三間町名誉町民の竹葉秀雄です。竹葉委員長は昭和十年に『土居清良』という本を著す程の崇敬者だったといいますが、八十二年の時を経て、平成二十九年に『土居清良』が復刻刊行されており、岡本合戦は当然「天正九年」で紹介されています。しかし『愛媛県編年史』にこのような問題があったとは、竹葉委員長はどのようにお考えになられたのでしょうか。もし、後年の研究に任せたのであれば、この編集における問題は、今正すのが良いでしょう。
第三章 「岡本合戦関係史料」の批判
普通に考えて、史料は成立順に批判して行くのが自然です。とくに軍記物語であれば、先に発表されたものを踏まえて話を膨らませる事も起こり得ます。全ての史料を横並びに扱えば、見えて来る物も見えて来ません。主な関係史料を成立順に並べ岡本合戦の年数の変遷について批判してみたいと思います。
『元親記』寛文八年(一六三一)高島重漸/孫右衛門正重
『清良記』承応二年(一六五三)土居水也/真吉水也
『長元物語』萬治二年(一六五九)立石正賀
『土佐軍記』元禄一三年(一七〇〇)作者不明/小畑邦器
『土佐物語』宝永五年(一七〇八)吉田孝世
『南海通記』享保三年(一七一八)香西成資
『土佐国編年紀事略』弘化四年(一八四八)中山厳水
『愛媛面影』明治二年(一八六九)半井梧庵
『予陽河野家譜』(成立年不明)作者不明
『清良記』と同時期の『元親記』『長元物語』には年数の記述がなく、「天正七年」は半世紀程過ぎた『土佐軍記』に初めて記述されますが、『土佐物語』は「天正九年」と記述しており、土佐に岡本合戦の年数に関する史料がなかった事が分かります。
又、讃岐の『南海通記』は間を取ったかのように「天正八年」を記述。このように「天正七年説」は非常に不確かなのです。
江戸時代の後期には、『元親記』から二百年後に発表された『土佐国編年紀事略』が「佐竹系図ニヨツテ七年トス」と述べましたが、佐竹系図には天正九年で書かれたものもあり、家系図や碑文や手紙も後代に創作された場合がある為、確かな史料になりません。
ところが明治に出版された伊予の『愛媛面影』は『土佐軍記』をそのまま引用した形を取ります。そして天正七年説を流布する結果となるのですが、それは『予陽河野家譜』も『土佐軍記』を元に岡本合戦記を創作しており、河野通賢が残した史料が何もなかった事を意味しているのです。
おわりに
『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第三号』が、「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」と述べた事は言い過ぎであり、この場を借りて撤回を求めます。天正七年説を支持する研究者が何人いようが、それは研究者の研究が不十分なのであって、今後の研究には冷静で客観的な判断を求めます。
以上
愛媛県宇和島市三間町宮野下七五〇
松 本 敏 幸