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清良記を紐解く会より August 2018


三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸  


 平成三十年七月二十一日(土)公民館事業【清良記を繙く】第二回が行われました。参加者は十八名。今回の勉強会が特別だったのは、西日本豪雨で被災した人や災害支援活動に従事する人がいる中での開催となった事です。「このような気の滅入る時だからこそ娯楽を大切にしよう」と、皆が納得して下さり、今回の勉強会は犠牲者に黙祷を捧げるところから始まりました。第二回の内容は、『清良記』の前半(巻一~十五)。「石城合戦」「土佐落ち」「大森帰城」「親民艦月集」「清良の謀反」「鉄砲鍛冶」「一条氏との和睦」等でしたが、永禄三年十月五日に土佐落ちした清良公が永禄五年七月十二日に三間の大森城に帰城を果たした時、先ず清良公が為したのは戦没者の供養です。しかし、それは大森城に赤飯を準備して「生ける者を一飯にても助けん」という思いがあったからでした。



 このように何か大きな災害があった時、一番疲弊しているのは家族を失った人達です。故に昔ながらの祭は慰霊や供養の目的があって、そのような祭を通して残された人達の心を慰労する事もできたのですが、今回の豪雨災害では和霊大祭を始め多くの祭が中止を余儀なくされました。それは、それだけ被害が甚大だったからではありますが、現代の祭が慰霊や供養という目的よりも遊びやイベント性を重視する向きが肥大していたからではないかと思うのです。それでも和霊神社では神事だけの復興祈願祭が行われましたが、それを見守った市民の声には「本当に重要な祭だった」「本物の和霊大祭を見た思いがした」等の声が聞かれました。今後の郷土の復興はまさに、このような祭から始まるのだと思ったような次第です。




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# by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:49 | 郷土史

□清良記を紐解く会より July 2018
 

         
 

 平成三十年度、遂に『清良記』の勉強会が三間公民館事業となりました。これは平成二十五年から五年間、三間史談会が取り組んで来た『清良記』を紐解く事業が一つの形として実を結んだ成果だと思います。

 公民館事業では『清良記を繙く』と題する四回シリーズの勉強会になっています。しかし、『清良記』の内容は膨大すぎて、その中でどの部分を紹介して行けば良いかという事が求められる所です。

 第一回目は六月二十三日(土)に第二研修室にて十九人の参加が見られました。内容は「清良記概観」「清良記の目的」「土居氏根源先祖」「登場人物」等でしたが、三間土居旧本の解説も行って大変な盛り上がりとなりました。

 次回は七月二十一日(土)ですが、「清良記前半」について解説をします。ここで外せないのはなんといっても「石城合戦」です。ここに戦国武将たる土居清良公の原点があると言っても過言ではありません。なぜ石城で土居氏は降伏せず自刃の道を選んだのか。自刃にどんな意味があったのか。その時の清良公の使命と心の内について解説したいと思います。そして、一条氏に仕える事になった清良公が大森帰城を果たして三間で真っ先に行ったのが農業と鉄砲改良ですが、それらが合戦に強い清良公の特有のイメージを作っており特筆したいと思います。又、前半の転機は長宗我部氏の台頭ですが、一条公に仕えながらその被官を調略して行く長宗我部氏の手先が土居に及んだ時、逆手に取って長宗我部氏の謀反を暴き、西園寺公と一条公の和議に結び付けた事は見過ごせない事件だと思います。さて何が飛び出しますか!七月も『清良記を繙く』へのご参加をよろしくお願い申し上げます。



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# by kiyoyoshinoiori | 2018-06-27 15:28 | 元親記

「元親記・目録」

◇国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵【元親記】より、「元親記・目録」を翻刻しました。
・元親記は本来、上巻、中巻、下巻の三巻となっていますが、国立公文書館所蔵の元親記は三巻を纏めた写本になっており、写真4〜6に上巻と中巻の目録、写真70〜71に下巻の目録が収録されています。以下は、元親記から目録のみを起こし、括弧書きで上巻、中巻、下巻を付しました。

元親記
目録
(上巻)
一家老分之㕝
一本山弓矢被取起調略幷於求濵合戰付本山入之㕝
一蓮池之城取㕝
一佐川陣之㕝
一安喜陣之㕝付奈半利限降参之㕝
一久禮之城主佐竹信濃守領分落書之㕝付降参之㕝付狂歌之㕝
一相撲之㕝
一一宮建立之㕝
一於羽禰鑓之㕝
一幡多落去之㕝
一幡多渡川合戰之㕝
一野根之城取之㕝
一夢合之㕝
一阿波入㝡初之㕝付岡豊之八幡神變之㕝
一阿列大西覺用降参之㕝
一同覺用心替而人質捨之㕝
一大西陣之㕝
一阿列川北重清陣之㕝付岩倉城主降参之㕝
一北伊豫二郡之侍共降参之㕝
一嘉例之千句之㕝付近衛殿御下向之㕝
一久武兄内蔵助打死之㕝付蔵助有馬湯治之事
(中巻)
一讃列藤目之城主降参之㕝付藤目之城落去㕝
一同藤目之城取返㕝
一阿列岩倉合戰之㕝
一讃岐羽床陣之㕝
一讃列香川殿降参之㕝幷縁邊取組㕝
一淡列加列殿降参之㕝幷縁邊取組㕝
一元親君達家中之子共藝能被仕付幷弓鉄炮吟味之㕝
一阿列南郡今市鑓之㕝
一同年岐之城主幷一宮蠻山城降参之㕝
一當國波川謀叛之㕝
一豫列北之川陣之㕝
一大津之城御座在一条殿遠流之㕝
一信長卿與元親被申通㕝幷御朱印面違却之㕝
一阿列三好合戰之㕝付紀列衆元親加勢渡海㕝
一同岩倉城落去以後直讃列被打越㕝
一仙谷権兵衛與合戰之㕝付十川之城楽去之㕝
一淡衆須本之城取㕝
一太閤三河御陣之跡大阪可取掛催㕝
一豫列美間陣之㕝
一太閤へ降参之㕝
(下巻)
元親記 太閤ヱ降参以後之㕝
目録
一初而上洛之㕝
一二度目上洛之㕝
一大佛殿御材木㕝
一豊後陣之㕝
一鯨進上之㕝
一小田原陣之㕝
一聚楽ニテ書院申之㕝
一高麗陣之㕝
一浦戸之湊江黒船入シ㕝
一高麗赤國陣之㕝
一於伏見職掌之御成之㕝

・元親記の特徴は年数が正確に入ってない事です。土佐の新しい領主山内氏への上奏とはいえ、元家臣高島正重が元親の三十三回忌の弔い上げに纏めたにしては、正確な記録が残されていなかった事が分かりますが、不正確な記録が残るよりはより良い事だと思います。比較的年数が細かく入っているのは天正十年の阿波三好笑岩との合戦、そして天正十五年に太閤秀吉に降参して以降の記事ですが、並びが時系列ではないという事に気を付けて読む必要があるようです。以下、本文中の年数を書き出しておきます。
(参考)
・一宮建立之事(元亀二年)
・於羽禰鑓之事(天正二年)
・夢合之事(天正三年春)
・阿波入最初之事(同年秋)
・阿州大西覺用降参之事(天正四年)
・大西陣之事(天正五年)
・阿州川北重清陣之事(右翌年)
・嘉例千句之事(天正五年春)
・藤目城取返事(右同年暮)
・阿州岩倉合戦之事(翌年)
・讃州香川殿降参之事(天正七年ノ春)
・当国波川謀反之事(天正八年五月中旬)
・予州北川陣之事(暮)
・信長卿與元親被申通事(天正十年五月上旬)
・阿州三好合戦之事(天正十年八月廿八日之合戦成)
・予州三間陣之事(天正十四年八月ノ末)
・太閤へ降参之事(天正十五年ノ夏)
・初めて上洛之事(天正十五年十月中旬)
・二度目上洛之事(右翌年正月)
・豊後陣之事(天正十八年ノ冬)
・小田原陣之事(天正十九年ノ春)
・高麗陣之事(文禄二年)
・浦戸之湊へ黒船入事(文禄五年九月廿八日)
・高麗赤国陣之事(文禄五年八月二日)
・於伏見職掌之御成之事(文禄五年卯月廿七日)



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# by kiyoyoshinoiori | 2018-06-04 00:16 | 元親記

続・岡本合戦の年数問題


続・岡本合戦の年数問題


松 本 敏 幸


   はじめに


 「よど第十七号」に『岡本合戦の年数問題』を寄稿しましたが、事は重大だけに再び筆を執ります。

 岡本合戦の年数に関して、平成年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第三号』が「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」と述べた事に対し、注記『伊豫史談一一三号』『愛媛県史』が「天正七年説」の根拠になっていない事は論証しましたが、それより深刻な問題が昭和四十四年発行『愛媛県編年史』にあります。

そこで今回は、『愛媛県編年史』の性格と問題点を指摘しながら岡本合戦関係史料を批判します。



第一章 『愛媛県編年史』の性格


 『愛媛県編年史』は河野氏史料優先です。六五頁の天正七年の要約に「長宗我部氏の将久武親信、山田外記ら宇和郡に来襲して岡本城を攻める、河野通賢・土居清良ら力戦してこれを敗走させる」とあるのは河野氏史料だけが主張している事であり、『清良記』では通賢こそが土佐に内通して岡本城を盗み取らせた張本人としています。この二者の関係は明らかに矛盾していますが、無批判に河野氏史料を採用しているのが『愛媛県編年史』といえます。

事実に目を向けてみれば、河野通賢の岡本城は合戦以後に土居清良の支城となり、その麓は土居垣内村と呼ばれます。もし通賢が応戦していれば、どんな理由があろうと土居の城にはならなかったでしょう。ここに一つの結論が見えます。



第二章 『愛媛県編年史』の問題点


『愛媛県編年史』は、岡本合戦の天正七年説を主張する為の編集となっています。「予陽河野家譜」から始まり、次に「伊予史談一一三号」で天正七年説の根拠にされた「緒方文書」が並び、後に続く「土居文書」や「清良記」には(天正七年カ)という注釈が付されます。そして、土佐史料である「元親記」や「長元物語」が並ぶのですが何かがおかしい。「予陽河野家譜」は成立年も作者も不明な上、岡本合戦の当事者でもありません。天正七年説ありきとする為だけの編集は、次に紹介する「土佐国編年紀事略」の扱いに非常に深刻な問題を残しています。


〔土佐国編年紀事略〕

竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書二、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札二至テ初メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年(天正七年)二俊光戦死セシヲ其子親父二継モノ疑ナキ歟、故二佐竹系図二ヨツテ七年トス、

元享院蔵古文書二、去年天正六戊寅四月、従土州諸軍勢発足之砌、以貴院御才覚、被仰調候而、山内俊光公・津野親房公、却而為静狼藉与放火、被加警固、寺家安全之段、自他之覚此事総而為謝貴院大功念、(中略)

   天正八年八月廿九日            竜沢俊派(花押)

    進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

                   (『愛媛県編年史・五集』七五頁)


 一見して何を述べたいか不明な文書ですが、岡本合戦の年数を考察した文書だと思えば、文末の「天正八年」という年数を見て、岡本合戦が天正九年に起きた可能性などあり得ないという印象を受けます。

ところが実際はそうではなく、前半は『土佐国編年紀事略』の作者の考察であり、江戸時代後期の文書です。そこに天正八年の文書を追記して、あたかも同じ一つの文書であるかのように見せているのです。しかも、別々の頁にある文書を抜粋し、前後を逆に入れ替えて並べており、このような史料の扱い方には疑問を禁じ得ません。特に前述のような誤解を招く恐れがある場合は、今からでも公に訂正をして然るべきです。

 時の愛媛県知事は久松定武、教育委員長は三間町名誉町民の竹葉秀雄です。竹葉委員長は昭和十年に『土居清良』という本を著す程の崇敬者だったといいますが、八十二年の時を経て、平成二十九年に『土居清良』が復刻刊行されており、岡本合戦は当然「天正九年」で紹介されています。しかし『愛媛県編年史』にこのような問題があったとは、竹葉委員長はどのようにお考えになられたのでしょうか。もし、後年の研究に任せたのであれば、この編集における問題は、今正すのが良いでしょう。



第三章 「岡本合戦関係史料」の批判


 普通に考えて、史料は成立順に批判して行くのが自然です。とくに軍記物語であれば、先に発表されたものを踏まえて話を膨らませる事も起こり得ます。全ての史料を横並びに扱えば、見えて来る物も見えて来ません。主な関係史料を成立順に並べ岡本合戦の年数の変遷について批判してみたいと思います。


『元親記』寛文八年(一六三一)高島重漸/孫右衛門正重

『清良記』承応二年(一六五三)土居水也/真吉水也

『長元物語』萬治二年(一六五九)立石正賀

『土佐軍記』元禄一三年(一七〇〇)作者不明/小畑邦器

『土佐物語』宝永五年(一七〇八)吉田孝世

『南海通記』享保三年(一七一八)香西成資

『土佐国編年紀事略』弘化四年(一八四八)中山厳水

『愛媛面影』明治二年(一八六九)半井梧庵

『予陽河野家譜』(成立年不明)作者不明


『清良記』と同時期の『元親記』『長元物語』には年数の記述がなく、「天正七年」は半世紀程過ぎた『土佐軍記』に初めて記述されますが、『土佐物語』は「天正九年」と記述しており、土佐に岡本合戦の年数に関する史料がなかった事が分かります。

又、讃岐の『南海通記』は間を取ったかのように「天正八年」を記述。このように「天正七年説」は非常に不確かなのです。

江戸時代の後期には、『元親記』から二百年後に発表された『土佐国編年紀事略』が「佐竹系図ニヨツテ七年トス」と述べましたが、佐竹系図には天正九年で書かれたものもあり、家系図や碑文や手紙も後代に創作された場合がある為、確かな史料になりません。

ところが明治に出版された伊予の『愛媛面影』は『土佐軍記』をそのまま引用した形を取ります。そして天正七年説を流布する結果となるのですが、それは『予陽河野家譜』も『土佐軍記』を元に岡本合戦記を創作しており、河野通賢が残した史料が何もなかった事を意味しているのです。



   おわりに


『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第三号』が、「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」と述べた事は言い過ぎであり、この場を借りて撤回を求めます。天正七年説を支持する研究者が何人いようが、それは研究者の研究が不十分なのであって、今後の研究には冷静で客観的な判断を求めます。



以上


愛媛県宇和島市三間町宮野下七五〇

松 本 敏 幸




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# by kiyoyoshinoiori | 2018-06-03 08:19 | 論文

 平成30年度、6月から9月までの4ヶ月間において、三間公民館主催の事業として「郷土史学級『清良記』を繙く」を開催する運びとなりました。講師は小生、三間史談会会員の松本が引き請けます。これまで研究団体である三間史談会では、批判的に清良記を紹介してきましたが、公民館事業ではより素直に清良記の世界を紹介して行きたいと思うています。以下は、第一回目のテキストとなりますが、三間史談会并三間郷土史研究会の会報にも掲載する予定です。内容は努めて簡潔にしていますが、落としている情報は学習会にて補講して行きますので、会員は是非受講していただければと思います。尚、公民館事業を引き請ける4ヶ月間は、三間史談会での清良記はありませんのでよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m


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(せい)良記(りょうき)』を(ひもと)


三 間 公 民 館 ・ 松 本 敏 幸







(せい)良記(りょうき)』を(ひもと)


  はじめに


 『清良記』は三間の宝物であり、そこに描かれた物語の主人公「土居清良」は、郷土が誇る戦国武将です。今回の公民館事業では、『清良記』への理解を深める事を通し、郷土愛を育む事を目的として、『清良記を繙く』と題した四回にわたるシリーズを準備しています。講師は、三間史談会で『清良記』を研究している松本敏幸が務めますが、今後の発展を大いに期待しております。皆様、最後までどうぞよろしくお願い致します。



概要

・第一回

  「清良記概観」「作者、成立年、目的」

「土居氏根源先祖」「登場人物」など

・第二回

  「清良記前半」「石城合戦」「土佐落ち」

  「土佐一条氏との合戦と和睦」など

・第三回

  「清良記後半」「長宗我部氏との合戦」

「毛利への加勢と織田の調略」「下城」など

・第四回

  ※特別講義『岡本橘合戦秘話』



    第一回『清良記』概観


 巻数は三十巻あり、巻第一より巻第三十まで巻毎に製本されていますが、原本は不在となっています。三間町政で指定文化財となった土居享市氏寄贈の清良記は、写本の三間土居本と呼ばれており、この他にも現存する清良記はいくつかありますが、全て写本とされています。

 成立については、江戸時代の萬治二年に清良記について調査した記録が発見されていますが、著者は三間の三嶋神社神主で土居氏の一族であった「水也」という者。その水也が承応三年に亡くなる前年に書き上げたのが、清良記であったとされます。

 清良記は土居清良公の一代記であると言われますが、実は清良公の生涯の半分までしか記述されていません。つまり、清良公は寛永六年に八十四年の生涯を閉じますが、清良記には慶長元年に丸串城代を辞退したという五十一歳から後の記述がありません。清良公が戦国時代の人物である事は間違いありませんが、生涯の半分は江戸時代に生きており、宇和島伊達家の筆頭家老であった山家清兵衛公が亡くなった元和六年より九年も後まで生きていたという事を知っていただきたいと思います。

 山家清兵衛公は三十三回忌の承応二年に正式に山頼和霊神社として祀られますが、清良記は同年の成立であり、また九年後、清良公も三十三回忌を以て清良神社に祀られていきます。萬治二年の調査からは二年後の事であり、宇和島伊達家と清良公には只ならぬ関係があったように思えます。



   清良記の目的


 清良記が著された目的については、巻一の一章の最後の一文を紹介します。


「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。

梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし」

(『清良記松浦郁郎校訂・三頁より


 著者水也は土居の一族であり、他家について書くのではなく、あくまで土居家の武功について書き残そうとしていた事が分かります。また巻十四の下の第二章には太平記を批評して


 「いかにある事とても侍のきっかけをひたとはずしたるをば、悪しきことにあいたるように作らるるこそ後までのかがみとも言うべけれ。あの太平記、世間に流布して諸人面白く思いたらば、いとど行きにくき末世。いよいよ侍のきっかけはずし、軍法立ちにくくなりぬと思うはいかに」

(『清良記松浦郁郎校訂・一九一頁より


 と清良公に語らせており、清良記は只ありのままを書き連ねるのではなく、侍の模範とすべき教科書としての役割を持たせた編集にしてある事が伺えます。

 その為に清良公が模範的に描かれる反面、敵対している侵略者は悪辣に描かれています。とくに土佐の長宗我部氏や土佐に内通していた裏切り者には容赦がありません。主に清良記は前半が土佐一条氏、後半が長宗我部氏との合戦ですが、土佐一条氏とは五摂家であり恩義もあった事から奉る記事もありますが、長宗我部氏はその土佐一条氏を乗っ取った事から人非人とまで言われています。



    土居氏根源先祖について


 さて、巻一の一章は『清良記』のまえがき的位置付けとなっていますが、記述を元に土居氏のルーツについて説明を加えておきます。

 土居氏のルーツとして登場する鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経公の家臣として宇和郡に赴任した折、現宇和島市伊吹町の八幡神社にイブキを植えた人物として知られています。この重家が奥州に随行する際、伊予国主河野四郎通信に預けたという嫡子太郎千代松殿が土居氏初代土居清行と説明するのが清良記です。また、清良記は重家と通信が従兄弟の関係であったとしていますが、通信の父は通清、祖父は親清であり、この親清の娘で通清の姉に当たるのが重家の母という関係になります。また千代松の弟は母方の名字を取り徳能三郎能行と名乗ったとされていますが、得能氏の祖として歴史に登場するのは通信の子通俊であるので、これはどう理解すべきか今も腑に落ちない所ではありますが、その末裔が金山城主今城能親という事になっていきます。

 ところで、鈴木重家は紀州の藤白鈴木氏の当主であり、紀州の藤白には重勝、重次、重義という三人の子がおりました。三間の土居氏との関係を疑うのは当然だと思いますが、清良記にも紀州の鈴木孫市から関係を問い質されたという話が登場しています。これには丁寧に説明を繰り返したとありますが、清良公の曽祖父にあたる重宗が書き送ったという狂歌の内容は


 「水上の 濁らば末の 川すすき

    清き流れに いつか澄むべき」


と歌っており、千代松の出身地も藤白ではなく、牟婁郡の土居である事から、藤白鈴木氏の血筋ではあっても嫡流ではない事を暗に匂わせています。

されど千代松は通信の娘を娶っており、河野氏に非常に近い立場で三間を領地していきます。

(松本)



人物の紹介


・土居清良(どいきよよし)『清良記』の主人公。

     天文十五年一月三十日生。

     寛永六年三月二十四日没。八十四歳

     寛文元年『清良神社』祭神となる。


・土居水也(どいすいや)『清良記』の著者。

承応三年に八十余歳で没しており、

元亀三年前後の生まれと考えられる。

      三嶋神社神主。


・土居清行(どいきよゆき)三間土居氏初代。

      鈴木三郎重家の嫡子太郎千代松。

      河野四郎通信の娘を娶り三間を領地。


・鈴木重家(すずきしげいえ)久寿三年生。

      文治五年四月三十日没。三十四歳

紀州藤白鈴木氏の当主。

熊野水軍を率いる。源義経の家臣。


・河野通信(こうのみちのぶ)保元元年生。

      貞応元年五月十九日没。六十七歳

      伊予河野氏二十三代当主。

      河野水軍を率いる。重家の従兄弟。


・山家清兵衛(やんべせいべえ)和霊神社祭神。

宇和島伊達家筆頭家老。天正七年生。

      元和六年六月三十日没。四十二歳



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# by kiyoyoshinoiori | 2018-06-01 10:04 | 公民館

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん