□『清良記』を紐解く会(March.2018)
三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸
二月は会報に岡本会員の「元成寺」に関する寄稿が掲載されましたので、勉強会はその検証となりました。
元成寺は『清良記』に登場し、住職の一花和尚は、妙覚寺の法田和尚、西光寺の梅岸和尚と並んで清良公の相談役となり、ある時は土佐との交渉役として活躍します。その元成寺が何処にあったのか、足跡を辿る事は容易ではない現状ですが、三間の中心地が宮野下である事、妙覚寺や西光寺と立場が対等であった事から、宮野下の何処かと考えるのが自然と思われます。三間町誌(p.202)に紹介されているように三間川の北側に寺院の跡を思わせるようなホノギが残されており、現在ある宮野下の白業寺は江戸時代からの建立である事などから、三嶋神社の御旅所の周辺の高地を中心に寺院があったのではないかという印象も受けますが、それも推測でしかありません。
☐「三間町誌」を紐解く①
三間町誌は平成六年当時の岩崎正巳町長のあいさつ文に始まり、あとがきに至るまで、歴史や文化財の域を超え、ありとあらゆる箇所に『清良記』が紹介されています。
テーマとして現れるのは第二編「歴史」の第六章「室町時代」と第七章「安土桃山時代」ですが、第三章「奈良・平安時代」の終わりにも「鈴木三郎重家と三間」として紹介されています。この件には池本覺先生が秘話をお持ちです。
さて三間町誌では室町時代を南北朝が合一された一三九二年からと見ます。そして第一節から直ぐに応仁の乱(一四六七)後に編成されていく宇和郡諸将の勢力を『清良記』『宇和旧記』『宇和郡記』等を対比しながら紹介。西園寺十五将という言葉に関する考え方も整理しています。更に鬼北地方の武将を取り上げて『吉田古記』や須田武男著『中世における伊予の領主』も対比していますが、土居殿の城砦である「松峰城」の説明は「岡本城」の間違いです。
又、特筆として河原渕殿を渡辺氏としていますが、松野町教育委員会は「渡辺氏を用いず河原渕氏を用いる」としていますので注記しておきます。河原渕氏の研究に関しては【第三回・清良記シンポジウム】の発表を楽しみにして下さい。
それより問題なのが芝一族の扱いですが、土居家と芝家との不仲の原因が清良と芝四郎右衛門の喧嘩にあるとか、その為に芝家が『清良記』で脇役にされたというのは誤解です。後にも先にも清良が芝を憎んだのは土佐に内通していたからであり、同様に長宗我部を憎んだのも土佐一条家を下剋上し、武士の道に反したからなのです。
☐【第三回・清良記シンポジウム】のお知らせ
三月十八日(日)午前十時~午後四時、松野町山村開発町民センター(庁舎横)にて行われます。前日、十七日(土)には「予土国境バスツアー」も開催されますが、ツアー参加希望者は松野町教育委員会(亀澤)まで連絡をお願いします。


以 上





























