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 平成30年度、6月から9月までの4ヶ月間において、三間公民館主催の事業として「郷土史学級『清良記』を繙く」を開催する運びとなりました。講師は小生、三間史談会会員の松本が引き請けます。これまで研究団体である三間史談会では、批判的に清良記を紹介してきましたが、公民館事業ではより素直に清良記の世界を紹介して行きたいと思うています。以下は、第一回目のテキストとなりますが、三間史談会并三間郷土史研究会の会報にも掲載する予定です。内容は努めて簡潔にしていますが、落としている情報は学習会にて補講して行きますので、会員は是非受講していただければと思います。尚、公民館事業を引き請ける4ヶ月間は、三間史談会での清良記はありませんのでよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m


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(せい)良記(りょうき)』を(ひもと)


三 間 公 民 館 ・ 松 本 敏 幸







(せい)良記(りょうき)』を(ひもと)


  はじめに


 『清良記』は三間の宝物であり、そこに描かれた物語の主人公「土居清良」は、郷土が誇る戦国武将です。今回の公民館事業では、『清良記』への理解を深める事を通し、郷土愛を育む事を目的として、『清良記を繙く』と題した四回にわたるシリーズを準備しています。講師は、三間史談会で『清良記』を研究している松本敏幸が務めますが、今後の発展を大いに期待しております。皆様、最後までどうぞよろしくお願い致します。



概要

・第一回

  「清良記概観」「作者、成立年、目的」

「土居氏根源先祖」「登場人物」など

・第二回

  「清良記前半」「石城合戦」「土佐落ち」

  「土佐一条氏との合戦と和睦」など

・第三回

  「清良記後半」「長宗我部氏との合戦」

「毛利への加勢と織田の調略」「下城」など

・第四回

  ※特別講義『岡本橘合戦秘話』



    第一回『清良記』概観


 巻数は三十巻あり、巻第一より巻第三十まで巻毎に製本されていますが、原本は不在となっています。三間町政で指定文化財となった土居享市氏寄贈の清良記は、写本の三間土居本と呼ばれており、この他にも現存する清良記はいくつかありますが、全て写本とされています。

 成立については、江戸時代の萬治二年に清良記について調査した記録が発見されていますが、著者は三間の三嶋神社神主で土居氏の一族であった「水也」という者。その水也が承応三年に亡くなる前年に書き上げたのが、清良記であったとされます。

 清良記は土居清良公の一代記であると言われますが、実は清良公の生涯の半分までしか記述されていません。つまり、清良公は寛永六年に八十四年の生涯を閉じますが、清良記には慶長元年に丸串城代を辞退したという五十一歳から後の記述がありません。清良公が戦国時代の人物である事は間違いありませんが、生涯の半分は江戸時代に生きており、宇和島伊達家の筆頭家老であった山家清兵衛公が亡くなった元和六年より九年も後まで生きていたという事を知っていただきたいと思います。

 山家清兵衛公は三十三回忌の承応二年に正式に山頼和霊神社として祀られますが、清良記は同年の成立であり、また九年後、清良公も三十三回忌を以て清良神社に祀られていきます。萬治二年の調査からは二年後の事であり、宇和島伊達家と清良公には只ならぬ関係があったように思えます。



   清良記の目的


 清良記が著された目的については、巻一の一章の最後の一文を紹介します。


「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。

梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし」

(『清良記松浦郁郎校訂・三頁より


 著者水也は土居の一族であり、他家について書くのではなく、あくまで土居家の武功について書き残そうとしていた事が分かります。また巻十四の下の第二章には太平記を批評して


 「いかにある事とても侍のきっかけをひたとはずしたるをば、悪しきことにあいたるように作らるるこそ後までのかがみとも言うべけれ。あの太平記、世間に流布して諸人面白く思いたらば、いとど行きにくき末世。いよいよ侍のきっかけはずし、軍法立ちにくくなりぬと思うはいかに」

(『清良記松浦郁郎校訂・一九一頁より


 と清良公に語らせており、清良記は只ありのままを書き連ねるのではなく、侍の模範とすべき教科書としての役割を持たせた編集にしてある事が伺えます。

 その為に清良公が模範的に描かれる反面、敵対している侵略者は悪辣に描かれています。とくに土佐の長宗我部氏や土佐に内通していた裏切り者には容赦がありません。主に清良記は前半が土佐一条氏、後半が長宗我部氏との合戦ですが、土佐一条氏とは五摂家であり恩義もあった事から奉る記事もありますが、長宗我部氏はその土佐一条氏を乗っ取った事から人非人とまで言われています。



    土居氏根源先祖について


 さて、巻一の一章は『清良記』のまえがき的位置付けとなっていますが、記述を元に土居氏のルーツについて説明を加えておきます。

 土居氏のルーツとして登場する鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経公の家臣として宇和郡に赴任した折、現宇和島市伊吹町の八幡神社にイブキを植えた人物として知られています。この重家が奥州に随行する際、伊予国主河野四郎通信に預けたという嫡子太郎千代松殿が土居氏初代土居清行と説明するのが清良記です。また、清良記は重家と通信が従兄弟の関係であったとしていますが、通信の父は通清、祖父は親清であり、この親清の娘で通清の姉に当たるのが重家の母という関係になります。また千代松の弟は母方の名字を取り徳能三郎能行と名乗ったとされていますが、得能氏の祖として歴史に登場するのは通信の子通俊であるので、これはどう理解すべきか今も腑に落ちない所ではありますが、その末裔が金山城主今城能親という事になっていきます。

 ところで、鈴木重家は紀州の藤白鈴木氏の当主であり、紀州の藤白には重勝、重次、重義という三人の子がおりました。三間の土居氏との関係を疑うのは当然だと思いますが、清良記にも紀州の鈴木孫市から関係を問い質されたという話が登場しています。これには丁寧に説明を繰り返したとありますが、清良公の曽祖父にあたる重宗が書き送ったという狂歌の内容は


 「水上の 濁らば末の 川すすき

    清き流れに いつか澄むべき」


と歌っており、千代松の出身地も藤白ではなく、牟婁郡の土居である事から、藤白鈴木氏の血筋ではあっても嫡流ではない事を暗に匂わせています。

されど千代松は通信の娘を娶っており、河野氏に非常に近い立場で三間を領地していきます。

(松本)



人物の紹介


・土居清良(どいきよよし)『清良記』の主人公。

     天文十五年一月三十日生。

     寛永六年三月二十四日没。八十四歳

     寛文元年『清良神社』祭神となる。


・土居水也(どいすいや)『清良記』の著者。

承応三年に八十余歳で没しており、

元亀三年前後の生まれと考えられる。

      三嶋神社神主。


・土居清行(どいきよゆき)三間土居氏初代。

      鈴木三郎重家の嫡子太郎千代松。

      河野四郎通信の娘を娶り三間を領地。


・鈴木重家(すずきしげいえ)久寿三年生。

      文治五年四月三十日没。三十四歳

紀州藤白鈴木氏の当主。

熊野水軍を率いる。源義経の家臣。


・河野通信(こうのみちのぶ)保元元年生。

      貞応元年五月十九日没。六十七歳

      伊予河野氏二十三代当主。

      河野水軍を率いる。重家の従兄弟。


・山家清兵衛(やんべせいべえ)和霊神社祭神。

宇和島伊達家筆頭家老。天正七年生。

      元和六年六月三十日没。四十二歳



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by kiyoyoshinoiori | 2018-06-01 10:04 | 公民館

清良記を紐解く会 May 2018


『清良記』を紐解く会より May 2018

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸


 五月を持ちまして、三間史談会主催『清良記』を紐解く会は一旦お休みとなりますが、六月〜九月の四ヶ月間は、三間公民館主催『清良記』を繙くとして継続しますので、会員は是非参加の手続きをしていただけますようにお願い致します。内容は、はじめて『清良記』を勉強するという人を想定した初心者向けの構成にしていく考えですが、十月以降も三間史談会に入会して勉強してみたいという人に出会えるかもしれません。どうぞ皆で盛り上げて行けるよう宜しくお願い致します。


□「三間町誌」を紐解く③ p.134 〜 p.163

 第二編、第七章「安土・桃山時代」は、信長の京入り(永禄十一年)から秀吉が没する(慶長三年)までの約三十年間。郷土史の勉強会では織豊時代とも表現されています。

 第一節「土居清良の活躍」で特筆すべきは、「軍制」の記事で「天正九年より、岡本城が土居の枝城となり」と『清良記』に合った記述を紹介している点です。(ただ侍十二人、足軽二十人、小人二十人については出処不明。)しかし、そこまで書きながら『三間町誌』は「岡本合戦」を天正七年の事として紹介していくのですが、そこに書かれた軍法は『清良記』にないばかりか『元親記』にさえない内容と言えるものです。つまり筆者が咀嚼して空想した作話に他なりませんが、史料の扱いとして一番してはいけない事をしてしまっています。町誌は小説や漫画ではないのです。『清良記』自体が作話ではないかという批判もありましょうが、そのまま紹介をするならまだしも内容を変えてまで紹介をする必要はありません。

 例えば土居似水が亡くなる間際に述べたとする台詞も、似水ではなく清良の台詞です。なぜ話を変える必要があるのか全く理解に苦しみます。

 又、軍法を箇条書きした次の段、岡本城は真吉新左衛門が城代として守っていたという事実誤認が起きていますが、その誤認が全く酷く現れた記事がp.208「戦略の前衛基地岡本城」です。そこには『清良記』の内容の欠片もなく、『清良記』を一度でも読んだ研究者が書いたとは思えない空想があり、大変に悔しく残念に思うのです。ある研究者は「三間町誌は町費の乱費」と批難したそうですが、そう言われても仕方がないと思います。

 『清良記』の内容が真か嘘か?史実か否か?という問題と、『清良記』に書かれてある内容を正しく伝え残す事は別問題と考えるべきであり、内容をよく吟味せず、空想やまた聞きによる内容を言い広めるような事は、今後は一切やめて行かなくてはなりません。それが『清良記』の名誉の回復に繋がる大切な事だからです。


□あとがき

 『三間町誌』の悪口ばかりになっていますが、『清良記』や三間の郷土史について勉強してみたいと思った人が、一番最初に手にする本が『三間町誌』です。もし、そこに問題があれば「なんだ!」という話になります。多くの人が気付かなくても学者や研究者には問題が分かるのです。隠しておく事はできません。ここは先に自己批判です。当事者だけができるのです。以上



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by kiyoyoshinoiori | 2018-05-01 08:30 | 郷土史

【第三回清良記シンポジウムの報告】

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

 平成三十年三月十七日(土)、東京から二年ぶりに帰郷された土居秀夫さんと二人で伊達博物館を表敬訪問しました。

 東京で伊達宗城公が所持していたという清良記伊達本の行方を探し、写本を所蔵している国会図書館や伊達家の今戸屋敷があった台東区文化課を訪問しているという土居さんの話には、伊達博物館々長も非常に関心を示していました。

「明治天皇御歌」  伊達宗城今戸屋敷にて

  いつみても あかぬ景色ぞ隅田川

     難美路(なみじ)の花は 冬もさきつつ



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 午後一時からは松野町教育委員会主催「予土国境バスツアー」に参加。三間史談会からは、岡本副会長夫妻、松浦忠志さん、土居秀夫さん、松本の五名が馳せ参じました。

 この企画は、十八日のシンポジウムで発表される亀澤学芸員の発表内容に関する現地研修になっていましたが、松野町には清良記に三つの移動ルートが登場しており、近世の絵図から見ても地名や様子が一致しており、「本当に清良記の通りだった」との説明を聴く事ができ、一同が大変な感銘を受けました。

 ① 須山口ルート…江川崎から西ヶ方、中家路を経て上家路に侵入するルート。

 ② 葛川ルート …江川崎から広見川沿いに葛川に進入するルート。難所とされている。

 ③ 権谷ルート …江川崎から奥野川に侵入するルート。



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 十七日の夜は三間史談会・三間郷土史研究会主催の『清良記』の勉強会を開催しました。

 内容は、三月会報に掲載した「三間町誌」を紐解く①でしたが、四月会報分を先行配布させていただきました。勉強の中心となったのは、土居清行の出生地は「藤城」ではないという事。そして、土居氏根源先祖である鈴木三郎重家と河野四郎通信の関係についてでした。


 鈴木重邦―――鈴木重倫

          |――――鈴木重家・従兄

      |―親清の娘

      |

 河野親清―――河野通清―――河野通信・従弟

(二十一代) (二十二代) (二十三代)



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 さて、三月十八日(日)は午前十時から松野町教育委員会の大ホールにて【第三回清良記シンポジウム】が開催されました。

 午前は愛媛の亀澤学芸員「中世予土国境のルートと『清良記』が描く河後森城」、土居学芸員「旧地名からみた河後森城及び城下の復元」、高山学芸員「発掘調査成果からみた河後森城の特徴」の研究発表があり、午後は高知県埋蔵文化財センター松田直則氏の発表「一条氏と長宗我部氏家臣団の城郭構築技術の特徴」、高知大学人文社会科学部・津野倫明教授の講演「一条氏から長宗我部氏へ~渡川合戦の意義~」、最後に愛媛大学名誉教授の下條信行教授をコーディネーターに迎えディスカッション。会場からも意見や質問が飛び交い、盛況の内に閉会となりました。

 皆様誠にお疲れ様でした。心からありがとうございました。



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以 上

 



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by kiyoyoshinoiori | 2018-03-25 13:47 | 郷土史

 『清良記』を紐解く会(資料)

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

☐「三間町誌」を紐解く②

 第二編「歴史」第六章「室町時代」の第三節「有馬殿」(p.108)を見ると、『清良記』と『清良記当時聞書追攷』には土居清行の出生地が「紀伊国牟婁郡藤城」として紹介されているように書かれていますが、実はどちらの史料にも「藤城」とは書かれておりません。おそらく清行の父である鈴木三郎重家が「藤白」の出身である為、牟婁郡に「藤城」という地名があると早合点したのでしょうが、「藤白」は現在の海南市であり和歌山県の北部にあって徳島県の向いに位置しており、「牟婁」は和歌山県の南部にあって三重県まで跨る地域を指します。そしてこの些細な間違いは『清良記』に疑問の眼を向ける結果を作っています。つまり、鈴木三郎重家には、重勝、重次、重義という三人の子がおり、系譜に土居清行は見当たらないという疑問です。しかし、『清良記』が書き残しているように清行の出身が藤白ではなく牟婁郡の「土居」だったという事、そして、紀州の鈴木孫市から根源を尋ねられた重宗が(清良の曾祖父)

  「水上の 濁らば末の川すすき

     清き流れにいつか澄むべき」

と詠んだという狂歌からは「ハハアなるほど」と腑に落ちる所が出て来るように思います。

 また、「伊予国河野四郎、越智通信」は同一人物を重ねて書いており伊予国主河野氏二十三代「河野四郎通信」の事ですが、河野通信と鈴木重家が従兄弟だったというのが『清良記』です。鈴木重家の母は通信の祖父「河野親清」の娘であり、確かに従兄弟だった事が証明されていますが、『清良記』に土居清行の弟が「母方の名字を取り徳能の三郎能行」と名乗ったという事は、河野から得能の祖となる通信の子「河野通俊」か、通俊が領地した西条市丹原町「徳能」に縁があるのではと思われます。

 肝心要の第六節「土居殿」では訂正が非常に多くあります。河野通信が鈴木重家の甥とあるのは従兄弟の間違い。そして、驚く事に「土居氏系譜」が二代から六代まで間違っており

 正しい系譜は、①清行→②重正→③重真→④清真→⑤清氏→⑥重氏→⑦土居備中守清時→⑧重時→⑨重明→⑩重宗→⑪清宗→⑫清貞→⑬清良、となります。

 「石城の戦い」では、清宗の入道は七十歳ではなく六十三歳。妙栄は河野の娘で、祖父が通高、父が通頼と言いますが、通頼の存在は不明。通直の祖父通直の弟通生の子に通高という人物はいますが、同一人物かは不明。清良の石城脱出は十月一日の早朝ではなく九月二十九日の夜。石城での一族自刃は十月六日ではなく十月五日の午前。酌み交わす酒などあろう筈もなく、末座より腹切り始め、主に見せ申さんとて、矢声をかけて逝きました。しかし、なぜ町誌が『清良記』の内容を変えてしまうのかについては大変致命的と言わざるを得ません。




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以 上



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by kiyoyoshinoiori | 2018-03-13 15:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会(March.2018


三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

 二月は会報に岡本会員の「元成寺」に関する寄稿が掲載されましたので、勉強会はその検証となりました。


 元成寺は『清良記』に登場し、住職の一花和尚は、妙覚寺の法田和尚、西光寺の梅岸和尚と並んで清良公の相談役となり、ある時は土佐との交渉役として活躍します。その元成寺が何処にあったのか、足跡を辿る事は容易ではない現状ですが、三間の中心地が宮野下である事、妙覚寺や西光寺と立場が対等であった事から、宮野下の何処かと考えるのが自然と思われます。三間町誌(p.202)に紹介されているように三間川の北側に寺院の跡を思わせるようなホノギが残されており、現在ある宮野下の白業寺は江戸時代からの建立である事などから、三嶋神社の御旅所の周辺の高地を中心に寺院があったのではないかという印象も受けますが、それも推測でしかありません。


☐「三間町誌」を紐解く①

 三間町誌は平成六年当時の岩崎正巳町長のあいさつ文に始まり、あとがきに至るまで、歴史や文化財の域を超え、ありとあらゆる箇所に『清良記』が紹介されています。


 テーマとして現れるのは第二編「歴史」の第六章「室町時代」と第七章「安土桃山時代」ですが、第三章「奈良・平安時代」の終わりにも「鈴木三郎重家と三間」として紹介されています。この件には池本覺先生が秘話をお持ちです。


 さて三間町誌では室町時代を南北朝が合一された一三九二年からと見ます。そして第一節から直ぐに応仁の乱(一四六七)後に編成されていく宇和郡諸将の勢力を『清良記』『宇和旧記』『宇和郡記』等を対比しながら紹介。西園寺十五将という言葉に関する考え方も整理しています。更に鬼北地方の武将を取り上げて『吉田古記』や須田武男著『中世における伊予の領主』も対比していますが、土居殿の城砦である「松峰城」の説明は「岡本城」の間違いです。


 又、特筆として河原渕殿を渡辺氏としていますが、松野町教育委員会は「渡辺氏を用いず河原渕氏を用いる」としていますので注記しておきます。河原渕氏の研究に関しては【第三回・清良記シンポジウム】の発表を楽しみにして下さい。


 それより問題なのが芝一族の扱いですが、土居家と芝家との不仲の原因が清良と芝四郎右衛門の喧嘩にあるとか、その為に芝家が『清良記』で脇役にされたというのは誤解です。後にも先にも清良が芝を憎んだのは土佐に内通していたからであり、同様に長宗我部を憎んだのも土佐一条家を下剋上し、武士の道に反したからなのです。


☐【第三回・清良記シンポジウム】のお知らせ

 三月十八日(日)午前十時~午後四時、松野町山村開発町民センター(庁舎横)にて行われます。前日、十七日(土)には「予土国境バスツアー」も開催されますが、ツアー参加希望者は松野町教育委員会(亀澤)まで連絡をお願いします。



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以 上






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by kiyoyoshinoiori | 2018-03-01 08:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く(平成三十年二月)

文 責 ・ 松 本 敏 幸

 三間史談会と郷土史研究会(西南四国歴史文化研究会三間支部)の共同事業である『清良記』を紐解く会は、今年から町誌に見る『清良記』の研究を始めて参ります。その町の歴史や古い云われに関心を持たれた人が、先ず手に取ってみようと思うのが町誌であろうと思います。私も初めて『三間町誌』を手にした時の感動は一入であった事を思い起こします。特に三間の町誌は『清良記』による述懐が非常に多く、それが非常に郷土の誇りであり宝物である事が伝わってきます。しかし、『清良記』自体を勉強してみると、『清良記』にはない記述を『清良記』の記述として紹介していたり、誤解による考証がされている事が分かるようになるのです。このような事態は放置して良い筈がない為、『清良記』を紐解く会は『三間町誌』を精査し、考察を発表する事で郷土史研究に寄与して参ろうと思う次第です。


☐「ひ」の心を継ぐ会を訪問

 松山の「ひ」の心を継ぐ会では、竹葉秀雄著『土居清良』の勉強会・第一回目が一月二十日に行われましたが、生憎仕事があった為、十六日に訪問して、まえがき、あとがき、資料編を中心に読み合わせしながら、『清良記』について理解しておって欲しい事を大まかにお話させていただきました。


☐「読み聞かせボランティア」の依頼を受ける

 宇和島市で「読み聞かせボランティア」をしている会から、竹葉秀雄著『土居清良』の読み方を教えて欲しいという依頼があり、既に三回の勉強会をしました。「読み聞かせボランティア」は、盲で本が読めない人の代わりに本を読み聞かせするボランティアの事ですが、今年は『土居清良』を希望する方がおられたそうです。本は既に手に入れておられましたが、ふり仮名がなく読めない言葉があるという事で、「ひ」の心を継ぐ会に問い合せがあり、自分まで依頼が入って来たのでした。自分は先ずボランティアの方と読み合わせをしているだけですが、どこに読みにくい言葉があるのか分かったり、自分にも読めない言葉があって確認できたり、思いがけない良い勉強会となりました。


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by kiyoyoshinoiori | 2018-02-01 08:00 | 郷土史


☐『清良記』を紐解く会より January 2018


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 平成二十九年十二月十八日、伊井景三会長、安岡賢司理事、岡本裕之会員の四名で、竹葉秀雄先生のご命日『醒庵忌』に出席して参りました。主催は「ひの心を継ぐ会」の皆さんです。又、この日に合わせて竹葉秀雄先生の著書『土居清良』が復刻刊行され、一同歓喜に沸いた会となりました。

 ひの心を継ぐ会では、毎月第二金曜日の夜七時から九時に松山城東麓に位置する大和塾(元和光幼稚園)で『土居清良』の勉強会が行われます。三間も負けないようにしっかりと

『清良記』について学んで参りましょう。

責・三


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by kiyoyoshinoiori | 2017-12-22 12:46 | 竹葉秀雄先生

☐『清良記』を紐解く会より

 昨年十二月に松浦郁郎先生発行の『清良記』を通読・解説が終了してから一年が経ちました。今年は一月から三間町指定有形文化財の古文書『清良記』の判読・翻刻をして参りましたが、作業をする中に先駆け全文翻刻をされた松浦郁郎先生のご苦労と功績の大きさを感じた次第です。

 新年からは『三間町誌』の勉強をしながら、『清良記』が紹介されている部分の確認作業を致します。各自『三間町誌』『清良記』をご持参下さい。

 また、十二月には竹葉秀雄先生(三間町名誉町民)が昭和十年に著された名著『土居清良』が復刻・発行されます。清良公に感銘を受けた竹葉秀雄先生が、その精神を余す所なく語っており、併せて勉強して参りたい所存です。


☐『竹葉秀雄先生』所縁の地をゆく

 十一月十日、松山から来た青年三名を、竹葉秀雄先生所縁の地にご案内しました。お名前は三浦夏南(こなん)さん、三浦颯(そう)さん、三浦杏奈(あんな)さん。この三浦さん達は竹葉秀雄先生の「ひ」の心を後世に継承・発展させたいと、「ひの心を継ぐ会」をつくられました。竹葉先生の名著『土居清良』も、この会から復刻・発行されることになります。




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 道の駅「みま」で待ち合わせ、先ず向かったのが「窓峠」です。「窓峠」は『清良記』にも亀甲正著『竹葉家』にも登場する場所ですが、真下には旧宇和島鉄道のトンネルがあり、鉄道敷線に奔走した今西幹一郎や河野虎尾らは、竹葉秀雄先生の伯父に当ります。(写真①、②、③)



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 三間小学校には、竹葉秀雄先生が揮毫した「ひ」碑があります。これは、昭和四十二年度PTAと今西寛一校長が建立した明治百年記念碑でしたが、三間町が宇和島市と合併する機会に松本が再建立させたものです。その経緯は勉強会にてお話します。(写真④)


 宮野下の三嶋神社には、竹葉家・三間村塾から譲り受けた大太鼓「雷(いかづち)」があります。これは大横綱双葉山が三間村塾に寄贈しています。(写真⑤)

 竹葉家の墓所は竹葉牧場の奥にあります。左右の石燈籠には左手に「河野氏」、右手に「竹葉氏」とあります。(写真⑥)



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 竹葉家はかつて松下村塾を模範にした「三間村塾」という私塾でした。それは昭和三年頃から、竹葉先生の仁徳に惹かれた青年達が竹葉家に集まって、古事記や論語を勉強するうちに自然に塾となったもので、剣道、柔道、弓道、相撲などの武道も行われていましたが、昭和九年には「神道夢想流杖道」が正式武道となっています。竹葉家前の記念碑は、安岡正篤先生の筆によります。(写真⑦)


 三間中学校の和室には、竹葉秀雄先生の揮毫「明明徳」と双葉山の揮毫「剛健」が飾られています。この言葉は東洋思想「大学」からの出典で、「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り」から来ていますが、三間高等学校にある創立二十周年記念碑にも「明徳を明らかにす」と揮毫されており、竹葉秀雄先生の人柄や信念が分かります。(写真⑧、⑨)



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 午後からは、土居中の土居家に伺わせていただきました。そこで見せていただいたのは、土居清良公の「御胸板薬師如来十二神」と土居系図「土居氏一統系傳」です。(写真⑩、⑪、⑫)

 その後、三間町から鬼北町へ向かい、まず深田の河野家、そして好藤公民館を訪ねました。旧深田村庄屋の末裔で、旧好藤村初代村長となったのが、竹葉秀雄先生の母方の祖父「河野通倫」です。

日露戦争では竹葉先生の父・秀資が戦死する不幸が起こりますが、幼い竹葉先生を守り教育したのが、母と祖母、そして深田の河野家でした。(写真⑬)

 次に向かった愛治小学校には、校訓「愛人治心(あいじんちしん)」の碑があります。この揮毫は安岡正篤先生から贈られた物です。(写真⑭、⑮)


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 そして、最後に訪ねたのが松浦健(たけし)先生です。健先生は三間中学校校歌を作曲しておられ、アコーディオンを演奏して一緒に校歌を歌って下さいました。また、訪問の為に三浦さん達も校歌の練習をしてきて下さっており、健先生にも奥様にも大変喜んでいただけました。そして、作曲に纏わる竹葉秀雄先生とのエピソードを伺いました。(写真⑯、⑰)


☐あとがき

 竹葉秀雄先生の『土居清良』の復刻・発行、そして三浦さん達との交流を持てた事は、本当に嬉しい事です。私は三間中学生時代に杖道クラブに所属しており、中学卒業から十年目に上甲一男先生と再会し「三間杖道会」と「愛媛県師友会ひの会」に入会していました。しかし、「ひの会」は二代目近藤美佐子会長が平成二十四年に亡くなられた後、翌年解散となります。その時の私の考えは、
「ひの会」が解散しようがしまいが、三間は何も変わる事はなく、難しい話は松山の先生方に任せて、私は三間で守るべきものを守ろうという思いでした。その一つが『清良記』の研究です。

今回の『土居清良』の復刻・発行は竹葉秀雄先生の命日「醒庵忌」に合わせて発行する為、少し拙速だったようにも思いましたが、今後のテキストにも加えさせていただき、三間も松山に負けぬよう切磋琢磨し、大いに勉強させていただこうと思います。

文責/三間史談会・松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2017-11-29 12:49 | 郷土史


☐『清良記』を紐解く会より


 清良記を紐解く活動は、今年の正月から宇和島市指定有形文化財「清良記三間土居旧本・巻第二十三」の翻刻を行ってきましたが、来年からは趣向を変え、三間町誌に見る『清良記』の紹介記事を確認しながら、『町誌』と『清良記』をダブルで勉強して参りたいと思います。

 尚、翻刻作業は有志で継続しますので、御志のある方は是非名乗りを上げていただければと思います。


☐「西南四国歴史文化研究会主催 梼原町研修」に参加して

 十月一日、予土交流会という事で梼原町に行って参りましたが、無医村の僻地で人口減少と高齢化率四十%超に悩んでいた筈の梼原町が、郷土の歴史と伝統文化を守りつつ、様々な国のモデル事業を牽引する自治体として復活しているという報告を耳にして大変感動致しました。

 ごみの収集は住民が行い、廃棄物を出さない燃料サイクルを実現。全ての住宅には無料の光ケーブルが引かれ、高齢者住宅と図書館を兼ね備えた施設にはドクターヘリが発着できます。

 そのような梼原町には古来より受け継ぐ津野山神楽があり、「壌一期(つちいちご)」という祈願がされていて、この世の続く限り継承せねばという強い思いがあるのだそうです。



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三間史談会主催「岡本家研修」を実施


 十月八日、三間町迫目の旧庄屋・岡本家の研修を実施することが出来ました。これは昨年の「美沼の里・産業文化まつり」をきっかけに岡本裕之氏が三間史談会に入会した事で実現した訳ですが、裕之氏が家の歴史に関心を寄せるようになったのは、木下博民先生が『岡本家の矜恃』を発刊して下さったからだといいます。

 又、池本覺先生は東京在住の岡本健氏(裕之氏伯父)と岡本家系図について発表された経緯があり、今回は特に詳しい解説を担当して下さいました。又、今回の研修で一番大きな苦労をされたのが武田利康先生でした。武田先生は岡本家庭園の測量をして下さいましたが、夏の盛りに何度も足を運んで下さり、立派な平面図と鑑賞を発表して下さいました。



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竹葉秀雄著『土居清良』の復刻について

 久松定武県政で県教育委員長を三期十二年勤められ、三間町名誉町民となった竹葉秀雄先生は、昭和十年に『土居清良』という本を著しています。これは『清良記』の解説書で、かつて三間史談会でも、故二宮虎雄先生の解説で、第二土曜日の午前に勉強をしておりましたが、この本が復刻・刊行されるという計画が進んでいます。

 中心的に動かれているのは、大森城登山でご一緒した北増穂の二宮敬和氏です。現在、二宮氏は竹葉秀雄先生の教えを勉強する「ひの心を継ぐ会」の顧問をしておられて、刊行するのは、この「ひの心を継ぐ会」からという事になります。そういう私も会員で、十月十六日には原稿の直しを手伝わせていただきましたが、現在、松山で勉強しているのは二十歳前後の若者達が中心で、今尚竹葉秀雄先生の威光が輝いている事を感じて大変な感銘を受けています。


三間三嶋神社の秋祭り

 台風一過。十月二十三日は晴天に恵まれて、無事に秋の祭礼が執り行われました。

 三間三嶋神社は、天平十年三月二十三日、伊予国主河野玉澄によって大山祇神社から勧請された三島大明神で、三間・鬼北にある神社では最も古い歴史を有しています。中世の三嶋神社は『清良記』に度々登場し、著者「水也」は三嶋神社の神官であったといいます。近代では郷社に列せられ、地域の尊崇を集める由緒ある神社です。これからも秋の祭礼がずっと続いて欲しいと思います。



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文 責・三 間 史 談 会 松 本 敏 幸



      


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by kiyoyoshinoiori | 2017-10-25 13:10 | 郷土史

 『迫目城』は、泉ヶ森の北麓に屏風を立てたように東西に細長く在る。三間町誌には「西城」「中城」「下城」からなる三連城として紹介しているが、標高は、一八九㍍、一九六㍍、一九一㍍。比高差は約三五㍍で、中程に旧庄屋岡本家が居を構えている。

 一方『清良記』にはユニークな名前と共に、この城で起きた合戦の様子が幾度が記述されているが、岡本城よりも多く登場していながら全く有名になっていない。その『迫目城』ではない、そのユニークな名前の数々を紹介しておきたい。



□『巻十一』三、豊後勢、三間へ打ち入る事

「同(永禄九年)七月二十六日に、豊後勢三分の二はかりたると聞こえしが、二万あまり板島、立間尻へ上がり、曽根、是房、無田(務田)、戸雁へ打ち出てて、深田、中野、河原渕、西の川まで放火す。城主ら一人も出でず見下ろして、二十六日までも居たり。土居、有馬は毎度むつかしきいくさする武士なればとて、古々和泉は明神山、温井右馬助は鼡の尾、赤星民部は下森に上り、面々に向城を取りて押え居たり。中にも秋月主膳は、土合という平地に陣取り居たり。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の一四九㌻下段、左から五行目に登場する、温井右馬助が陣を構えたとする「鼡(ねずみ)の尾」は、迫目城の「下城」である。それを巻十一だけで特定することは難しかったが、後に紹介する巻十九によって特定が可能となった。ここでは、豊後勢が大森城に詰める土居勢を包囲するように向城を取ったという事から、大森城を正面に見据えられる山である事。そして、後に大雨で三間川が氾濫し、明神山に布陣した古々和泉だけが孤立したという記述がある事から、三間川より南側の山という事が分かるだけであったが、「鼡の尾」という例え方は、いかにも「下城」らしい。



□『巻十九』一、山内外記武勇の事

「清良、こたびはわずらいなれば出合わられず、西園寺殿出馬ありて、迫目村中の城に本陣を置き、当番なれば中野通正、深田の城代林豊後守は下浄土の森に出陣す。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 『迫目城』が合戦場として大々的に登場するのが清良記松浦郁郎校訂の二五三㌻から始まる巻十九であるが、土佐が三間に攻め入った時に宇和の旗頭西園寺公広が本陣を置いたという「迫目村中の城」は迫目城の「中城」と見て間違いない。

 ところで、巻十九で特筆すべき事は、岡本合戦で討死した三人の大将の内の一人と言われている山内外記が、『清良記』では岡本合戦ではなく、迫目城の合戦で討死しているという事である。そして、芝一族も中野殿も土佐にはまだ内通しておらず、何より西園寺殿が自ら采配を取っている姿が、岡本合戦とは全く印象を違えている。



□『巻十九』十、土居七口の鑓、土佐方の軍大将山内外記を討つ。併、小大将古山但馬、佐川宮内を打ち取る事

「山内は、案深き敵なり。味方疲れたりといえども、今日の軍すでに五口、勝ちは八度なれば、敵はおくれ味方はきおいありしかども、このまま疲れ武者ども荒ら手の山内が勢と差し向かいて戦わば、心はたけしといえども、手足くたびれて心に任せぬことあるべし。ここにこそ謀のいるところなれ。清良案ずる行(てだて)は、先刻、土佐方を打って取り、拾いたる旗、差し物をことごとく取り持たせてさし上げ、外記が味方の勢と思わせ、彼が後ろより旗本へ押し寄せ、油断したるところを、侍も皆々鉄砲にて山内が勢を打ち立てたらんには、何の雑作もなく攻めくずすべしと思うが、面々この行(てだて)はいかにとありければ、皆、もっともときおい立ち、さらばとて人をすぐり、二百余人に西城馬爪へ土佐者の旗ささせてつかわし。清良は百余人にてこれも若藤が旗をささせ、伝久院に上がり、河添には土居の旗ささせ。ねずみの尾より蜂の巣へかかりければ、山内これに向かい、土居は小勢なり、取りこめて打ち取れと、下知(げち)す。河添、心に思いけるは、かりそめにも大将の旗を立てるは、わが冥加(みょうが)なり、少しもおくれなば、外記をば謀の勢に討ち取らるべきぞ。我こたび外記を討ち取らずんば、二度(ふたたび)弓矢を手にとるまじと、心中に誓いて出でけるは、たのもしくこそ見えにけれ。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の二六二㌻天正三年二月二十八日の暮れから始まる戦は、元親の弟親泰が指揮を執り、千余騎にて三間へ攻め入るが、迫目にて大将山内外記が討死している。二六五㌻下段の最後から、二六六㌻の始めにかけての記述には「西城馬爪」「ねずみの尾」の名前があり、更に続く「蜂の巣」の名前から、迫目城の「下城」と特定する事ができた。この名前は、「下城」の麓を流れる三間川に架かる「蜂の巣橋」として今も残っている。なぜそのような名前なのかは不明だが、『清良記』にある名前として、これからも大切にして行けたらと思う。
(写真は、三間の郷社三嶋神社から望む泉ヶ森と迫目城。)



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by kiyoyoshinoiori | 2017-08-23 18:36 | 清良記

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん