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 『清良記』を紐解く会(資料)

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

☐「三間町誌」を紐解く②

 第二編「歴史」第六章「室町時代」の第三節「有馬殿」(p.108)を見ると、『清良記』と『清良記当時聞書追攷』には土居清行の出生地が「紀伊国牟婁郡藤城」として紹介されているように書かれていますが、実はどちらの史料にも「藤城」とは書かれておりません。おそらく清行の父である鈴木三郎重家が「藤白」の出身である為、牟婁郡に「藤城」という地名があると早合点したのでしょうが、「藤白」は現在の海南市であり和歌山県の北部にあって徳島県の向いに位置しており、「牟婁」は和歌山県の南部にあって三重県まで跨る地域を指します。そしてこの些細な間違いは『清良記』に疑問の眼を向ける結果を作っています。つまり、鈴木三郎重家には、重勝、重次、重義という三人の子がおり、系譜に土居清行は見当たらないという疑問です。しかし、『清良記』が書き残しているように清行の出身が藤白ではなく牟婁郡の「土居」だったという事、そして、紀州の鈴木孫市から根源を尋ねられた重宗が(清良の曾祖父)

  「水上の 濁らば末の川すすき

     清き流れにいつか澄むべき」

と詠んだという狂歌からは「ハハアなるほど」と腑に落ちる所が出て来るように思います。

 また、「伊予国河野四郎、越智通信」は同一人物を重ねて書いており伊予国主河野氏二十三代「河野四郎通信」の事ですが、河野通信と鈴木重家が従兄弟だったというのが『清良記』です。鈴木重家の母は通信の祖父「河野親清」の娘であり、確かに従兄弟だった事が証明されていますが、『清良記』に土居清行の弟が「母方の名字を取り徳能の三郎能行」と名乗ったという事は、河野から得能の祖となる通信の子「河野通俊」か、通俊が領地した西条市丹原町「徳能」に縁があるのではと思われます。

 肝心要の第六節「土居殿」では訂正が非常に多くあります。河野通信が鈴木重家の甥とあるのは従兄弟の間違い。そして、驚く事に「土居氏系譜」が二代から六代まで間違っており

 正しい系譜は、①清行→②重正→③重真→④清真→⑤清氏→⑥重氏→⑦土居備中守清時→⑧重時→⑨重明→⑩重宗→⑪清宗→⑫清貞→⑬清良、となります。

 「石城の戦い」では、清宗の入道は七十歳ではなく六十三歳。妙栄は河野の娘で、祖父が通高、父が通頼と言いますが、通頼の存在は不明。通直の祖父通直の弟通生の子に通高という人物はいますが、同一人物かは不明。清良の石城脱出は十月一日の早朝ではなく九月二十九日の夜。石城での一族自刃は十月六日ではなく十月五日の午前。酌み交わす酒などあろう筈もなく、末座より腹切り始め、主に見せ申さんとて、矢声をかけて逝きました。しかし、なぜ町誌が『清良記』の内容を変えてしまうのかについては大変致命的と言わざるを得ません。




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以 上



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by kiyoyoshinoiori | 2018-03-13 15:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会(March.2018


三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

 二月は会報に岡本会員の「元成寺」に関する寄稿が掲載されましたので、勉強会はその検証となりました。


 元成寺は『清良記』に登場し、住職の一花和尚は、妙覚寺の法田和尚、西光寺の梅岸和尚と並んで清良公の相談役となり、ある時は土佐との交渉役として活躍します。その元成寺が何処にあったのか、足跡を辿る事は容易ではない現状ですが、三間の中心地が宮野下である事、妙覚寺や西光寺と立場が対等であった事から、宮野下の何処かと考えるのが自然と思われます。三間町誌(p.202)に紹介されているように三間川の北側に寺院の跡を思わせるようなホノギが残されており、現在ある宮野下の白業寺は江戸時代からの建立である事などから、三嶋神社の御旅所の周辺の高地を中心に寺院があったのではないかという印象も受けますが、それも推測でしかありません。


☐「三間町誌」を紐解く①

 三間町誌は平成六年当時の岩崎正巳町長のあいさつ文に始まり、あとがきに至るまで、歴史や文化財の域を超え、ありとあらゆる箇所に『清良記』が紹介されています。


 テーマとして現れるのは第二編「歴史」の第六章「室町時代」と第七章「安土桃山時代」ですが、第三章「奈良・平安時代」の終わりにも「鈴木三郎重家と三間」として紹介されています。この件には池本覺先生が秘話をお持ちです。


 さて三間町誌では室町時代を南北朝が合一された一三九二年からと見ます。そして第一節から直ぐに応仁の乱(一四六七)後に編成されていく宇和郡諸将の勢力を『清良記』『宇和旧記』『宇和郡記』等を対比しながら紹介。西園寺十五将という言葉に関する考え方も整理しています。更に鬼北地方の武将を取り上げて『吉田古記』や須田武男著『中世における伊予の領主』も対比していますが、土居殿の城砦である「松峰城」の説明は「岡本城」の間違いです。


 又、特筆として河原渕殿を渡辺氏としていますが、松野町教育委員会は「渡辺氏を用いず河原渕氏を用いる」としていますので注記しておきます。河原渕氏の研究に関しては【第三回・清良記シンポジウム】の発表を楽しみにして下さい。


 それより問題なのが芝一族の扱いですが、土居家と芝家との不仲の原因が清良と芝四郎右衛門の喧嘩にあるとか、その為に芝家が『清良記』で脇役にされたというのは誤解です。後にも先にも清良が芝を憎んだのは土佐に内通していたからであり、同様に長宗我部を憎んだのも土佐一条家を下剋上し、武士の道に反したからなのです。


☐【第三回・清良記シンポジウム】のお知らせ

 三月十八日(日)午前十時~午後四時、松野町山村開発町民センター(庁舎横)にて行われます。前日、十七日(土)には「予土国境バスツアー」も開催されますが、ツアー参加希望者は松野町教育委員会(亀澤)まで連絡をお願いします。



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以 上






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by kiyoyoshinoiori | 2018-03-01 08:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く(平成三十年二月)

文 責 ・ 松 本 敏 幸

 三間史談会と郷土史研究会(西南四国歴史文化研究会三間支部)の共同事業である『清良記』を紐解く会は、今年から町誌に見る『清良記』の研究を始めて参ります。その町の歴史や古い云われに関心を持たれた人が、先ず手に取ってみようと思うのが町誌であろうと思います。私も初めて『三間町誌』を手にした時の感動は一入であった事を思い起こします。特に三間の町誌は『清良記』による述懐が非常に多く、それが非常に郷土の誇りであり宝物である事が伝わってきます。しかし、『清良記』自体を勉強してみると、『清良記』にはない記述を『清良記』の記述として紹介していたり、誤解による考証がされている事が分かるようになるのです。このような事態は放置して良い筈がない為、『清良記』を紐解く会は『三間町誌』を精査し、考察を発表する事で郷土史研究に寄与して参ろうと思う次第です。


☐「ひ」の心を継ぐ会を訪問

 松山の「ひ」の心を継ぐ会では、竹葉秀雄著『土居清良』の勉強会・第一回目が一月二十日に行われましたが、生憎仕事があった為、十六日に訪問して、まえがき、あとがき、資料編を中心に読み合わせしながら、『清良記』について理解しておって欲しい事を大まかにお話させていただきました。


☐「読み聞かせボランティア」の依頼を受ける

 宇和島市で「読み聞かせボランティア」をしている会から、竹葉秀雄著『土居清良』の読み方を教えて欲しいという依頼があり、既に三回の勉強会をしました。「読み聞かせボランティア」は、盲で本が読めない人の代わりに本を読み聞かせするボランティアの事ですが、今年は『土居清良』を希望する方がおられたそうです。本は既に手に入れておられましたが、ふり仮名がなく読めない言葉があるという事で、「ひ」の心を継ぐ会に問い合せがあり、自分まで依頼が入って来たのでした。自分は先ずボランティアの方と読み合わせをしているだけですが、どこに読みにくい言葉があるのか分かったり、自分にも読めない言葉があって確認できたり、思いがけない良い勉強会となりました。


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by kiyoyoshinoiori | 2018-02-01 08:00 | 郷土史


☐『清良記』を紐解く会より January 2018


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 平成二十九年十二月十八日、伊井景三会長、安岡賢司理事、岡本裕之会員の四名で、竹葉秀雄先生のご命日『醒庵忌』に出席して参りました。主催は「ひの心を継ぐ会」の皆さんです。又、この日に合わせて竹葉秀雄先生の著書『土居清良』が復刻刊行され、一同歓喜に沸いた会となりました。

 ひの心を継ぐ会では、毎月第二金曜日の夜七時から九時に松山城東麓に位置する大和塾(元和光幼稚園)で『土居清良』の勉強会が行われます。三間も負けないようにしっかりと

『清良記』について学んで参りましょう。

責・三


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by kiyoyoshinoiori | 2017-12-22 12:46 | 竹葉秀雄先生

☐『清良記』を紐解く会より

 昨年十二月に松浦郁郎先生発行の『清良記』を通読・解説が終了してから一年が経ちました。今年は一月から三間町指定有形文化財の古文書『清良記』の判読・翻刻をして参りましたが、作業をする中に先駆け全文翻刻をされた松浦郁郎先生のご苦労と功績の大きさを感じた次第です。

 新年からは『三間町誌』の勉強をしながら、『清良記』が紹介されている部分の確認作業を致します。各自『三間町誌』『清良記』をご持参下さい。

 また、十二月には竹葉秀雄先生(三間町名誉町民)が昭和十年に著された名著『土居清良』が復刻・発行されます。清良公に感銘を受けた竹葉秀雄先生が、その精神を余す所なく語っており、併せて勉強して参りたい所存です。


☐『竹葉秀雄先生』所縁の地をゆく

 十一月十日、松山から来た青年三名を、竹葉秀雄先生所縁の地にご案内しました。お名前は三浦夏南(こなん)さん、三浦颯(そう)さん、三浦杏奈(あんな)さん。この三浦さん達は竹葉秀雄先生の「ひ」の心を後世に継承・発展させたいと、「ひの心を継ぐ会」をつくられました。竹葉先生の名著『土居清良』も、この会から復刻・発行されることになります。




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 道の駅「みま」で待ち合わせ、先ず向かったのが「窓峠」です。「窓峠」は『清良記』にも亀甲正著『竹葉家』にも登場する場所ですが、真下には旧宇和島鉄道のトンネルがあり、鉄道敷線に奔走した今西幹一郎や河野虎尾らは、竹葉秀雄先生の伯父に当ります。(写真①、②、③)



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 三間小学校には、竹葉秀雄先生が揮毫した「ひ」碑があります。これは、昭和四十二年度PTAと今西寛一校長が建立した明治百年記念碑でしたが、三間町が宇和島市と合併する機会に松本が再建立させたものです。その経緯は勉強会にてお話します。(写真④)


 宮野下の三嶋神社には、竹葉家・三間村塾から譲り受けた大太鼓「雷(いかづち)」があります。これは大横綱双葉山が三間村塾に寄贈しています。(写真⑤)

 竹葉家の墓所は竹葉牧場の奥にあります。左右の石燈籠には左手に「河野氏」、右手に「竹葉氏」とあります。(写真⑥)



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 竹葉家はかつて松下村塾を模範にした「三間村塾」という私塾でした。それは昭和三年頃から、竹葉先生の仁徳に惹かれた青年達が竹葉家に集まって、古事記や論語を勉強するうちに自然に塾となったもので、剣道、柔道、弓道、相撲などの武道も行われていましたが、昭和九年には「神道夢想流杖道」が正式武道となっています。竹葉家前の記念碑は、安岡正篤先生の筆によります。(写真⑦)


 三間中学校の和室には、竹葉秀雄先生の揮毫「明明徳」と双葉山の揮毫「剛健」が飾られています。この言葉は東洋思想「大学」からの出典で、「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り」から来ていますが、三間高等学校にある創立二十周年記念碑にも「明徳を明らかにす」と揮毫されており、竹葉秀雄先生の人柄や信念が分かります。(写真⑧、⑨)



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 午後からは、土居中の土居家に伺わせていただきました。そこで見せていただいたのは、土居清良公の「御胸板薬師如来十二神」と土居系図「土居氏一統系傳」です。(写真⑩、⑪、⑫)

 その後、三間町から鬼北町へ向かい、まず深田の河野家、そして好藤公民館を訪ねました。旧深田村庄屋の末裔で、旧好藤村初代村長となったのが、竹葉秀雄先生の母方の祖父「河野通倫」です。

日露戦争では竹葉先生の父・秀資が戦死する不幸が起こりますが、幼い竹葉先生を守り教育したのが、母と祖母、そして深田の河野家でした。(写真⑬)

 次に向かった愛治小学校には、校訓「愛人治心(あいじんちしん)」の碑があります。この揮毫は安岡正篤先生から贈られた物です。(写真⑭、⑮)


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 そして、最後に訪ねたのが松浦健(たけし)先生です。健先生は三間中学校校歌を作曲しておられ、アコーディオンを演奏して一緒に校歌を歌って下さいました。また、訪問の為に三浦さん達も校歌の練習をしてきて下さっており、健先生にも奥様にも大変喜んでいただけました。そして、作曲に纏わる竹葉秀雄先生とのエピソードを伺いました。(写真⑯、⑰)


☐あとがき

 竹葉秀雄先生の『土居清良』の復刻・発行、そして三浦さん達との交流を持てた事は、本当に嬉しい事です。私は三間中学生時代に杖道クラブに所属しており、中学卒業から十年目に上甲一男先生と再会し「三間杖道会」と「愛媛県師友会ひの会」に入会していました。しかし、「ひの会」は二代目近藤美佐子会長が平成二十四年に亡くなられた後、翌年解散となります。その時の私の考えは、
「ひの会」が解散しようがしまいが、三間は何も変わる事はなく、難しい話は松山の先生方に任せて、私は三間で守るべきものを守ろうという思いでした。その一つが『清良記』の研究です。

今回の『土居清良』の復刻・発行は竹葉秀雄先生の命日「醒庵忌」に合わせて発行する為、少し拙速だったようにも思いましたが、今後のテキストにも加えさせていただき、三間も松山に負けぬよう切磋琢磨し、大いに勉強させていただこうと思います。

文責/三間史談会・松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2017-11-29 12:49 | 郷土史


☐『清良記』を紐解く会より


 清良記を紐解く活動は、今年の正月から宇和島市指定有形文化財「清良記三間土居旧本・巻第二十三」の翻刻を行ってきましたが、来年からは趣向を変え、三間町誌に見る『清良記』の紹介記事を確認しながら、『町誌』と『清良記』をダブルで勉強して参りたいと思います。

 尚、翻刻作業は有志で継続しますので、御志のある方は是非名乗りを上げていただければと思います。


☐「西南四国歴史文化研究会主催 梼原町研修」に参加して

 十月一日、予土交流会という事で梼原町に行って参りましたが、無医村の僻地で人口減少と高齢化率四十%超に悩んでいた筈の梼原町が、郷土の歴史と伝統文化を守りつつ、様々な国のモデル事業を牽引する自治体として復活しているという報告を耳にして大変感動致しました。

 ごみの収集は住民が行い、廃棄物を出さない燃料サイクルを実現。全ての住宅には無料の光ケーブルが引かれ、高齢者住宅と図書館を兼ね備えた施設にはドクターヘリが発着できます。

 そのような梼原町には古来より受け継ぐ津野山神楽があり、「壌一期(つちいちご)」という祈願がされていて、この世の続く限り継承せねばという強い思いがあるのだそうです。



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三間史談会主催「岡本家研修」を実施


 十月八日、三間町迫目の旧庄屋・岡本家の研修を実施することが出来ました。これは昨年の「美沼の里・産業文化まつり」をきっかけに岡本裕之氏が三間史談会に入会した事で実現した訳ですが、裕之氏が家の歴史に関心を寄せるようになったのは、木下博民先生が『岡本家の矜恃』を発刊して下さったからだといいます。

 又、池本覺先生は東京在住の岡本健氏(裕之氏伯父)と岡本家系図について発表された経緯があり、今回は特に詳しい解説を担当して下さいました。又、今回の研修で一番大きな苦労をされたのが武田利康先生でした。武田先生は岡本家庭園の測量をして下さいましたが、夏の盛りに何度も足を運んで下さり、立派な平面図と鑑賞を発表して下さいました。



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竹葉秀雄著『土居清良』の復刻について

 久松定武県政で県教育委員長を三期十二年勤められ、三間町名誉町民となった竹葉秀雄先生は、昭和十年に『土居清良』という本を著しています。これは『清良記』の解説書で、かつて三間史談会でも、故二宮虎雄先生の解説で、第二土曜日の午前に勉強をしておりましたが、この本が復刻・刊行されるという計画が進んでいます。

 中心的に動かれているのは、大森城登山でご一緒した北増穂の二宮敬和氏です。現在、二宮氏は竹葉秀雄先生の教えを勉強する「ひの心を継ぐ会」の顧問をしておられて、刊行するのは、この「ひの心を継ぐ会」からという事になります。そういう私も会員で、十月十六日には原稿の直しを手伝わせていただきましたが、現在、松山で勉強しているのは二十歳前後の若者達が中心で、今尚竹葉秀雄先生の威光が輝いている事を感じて大変な感銘を受けています。


三間三嶋神社の秋祭り

 台風一過。十月二十三日は晴天に恵まれて、無事に秋の祭礼が執り行われました。

 三間三嶋神社は、天平十年三月二十三日、伊予国主河野玉澄によって大山祇神社から勧請された三島大明神で、三間・鬼北にある神社では最も古い歴史を有しています。中世の三嶋神社は『清良記』に度々登場し、著者「水也」は三嶋神社の神官であったといいます。近代では郷社に列せられ、地域の尊崇を集める由緒ある神社です。これからも秋の祭礼がずっと続いて欲しいと思います。



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文 責・三 間 史 談 会 松 本 敏 幸



      


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by kiyoyoshinoiori | 2017-10-25 13:10 | 郷土史

 『迫目城』は、泉ヶ森の北麓に屏風を立てたように東西に細長く在る。三間町誌には「西城」「中城」「下城」からなる三連城として紹介しているが、標高は、一八九㍍、一九六㍍、一九一㍍。比高差は約三五㍍で、中程に旧庄屋岡本家が居を構えている。

 一方『清良記』にはユニークな名前と共に、この城で起きた合戦の様子が幾度が記述されているが、岡本城よりも多く登場していながら全く有名になっていない。その『迫目城』ではない、そのユニークな名前の数々を紹介しておきたい。



□『巻十一』三、豊後勢、三間へ打ち入る事

「同(永禄九年)七月二十六日に、豊後勢三分の二はかりたると聞こえしが、二万あまり板島、立間尻へ上がり、曽根、是房、無田(務田)、戸雁へ打ち出てて、深田、中野、河原渕、西の川まで放火す。城主ら一人も出でず見下ろして、二十六日までも居たり。土居、有馬は毎度むつかしきいくさする武士なればとて、古々和泉は明神山、温井右馬助は鼡の尾、赤星民部は下森に上り、面々に向城を取りて押え居たり。中にも秋月主膳は、土合という平地に陣取り居たり。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の一四九㌻下段、左から五行目に登場する、温井右馬助が陣を構えたとする「鼡(ねずみ)の尾」は、迫目城の「下城」である。それを巻十一だけで特定することは難しかったが、後に紹介する巻十九によって特定が可能となった。ここでは、豊後勢が大森城に詰める土居勢を包囲するように向城を取ったという事から、大森城を正面に見据えられる山である事。そして、後に大雨で三間川が氾濫し、明神山に布陣した古々和泉だけが孤立したという記述がある事から、三間川より南側の山という事が分かるだけであったが、「鼡の尾」という例え方は、いかにも「下城」らしい。



□『巻十九』一、山内外記武勇の事

「清良、こたびはわずらいなれば出合わられず、西園寺殿出馬ありて、迫目村中の城に本陣を置き、当番なれば中野通正、深田の城代林豊後守は下浄土の森に出陣す。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 『迫目城』が合戦場として大々的に登場するのが清良記松浦郁郎校訂の二五三㌻から始まる巻十九であるが、土佐が三間に攻め入った時に宇和の旗頭西園寺公広が本陣を置いたという「迫目村中の城」は迫目城の「中城」と見て間違いない。

 ところで、巻十九で特筆すべき事は、岡本合戦で討死した三人の大将の内の一人と言われている山内外記が、『清良記』では岡本合戦ではなく、迫目城の合戦で討死しているという事である。そして、芝一族も中野殿も土佐にはまだ内通しておらず、何より西園寺殿が自ら采配を取っている姿が、岡本合戦とは全く印象を違えている。



□『巻十九』十、土居七口の鑓、土佐方の軍大将山内外記を討つ。併、小大将古山但馬、佐川宮内を打ち取る事

「山内は、案深き敵なり。味方疲れたりといえども、今日の軍すでに五口、勝ちは八度なれば、敵はおくれ味方はきおいありしかども、このまま疲れ武者ども荒ら手の山内が勢と差し向かいて戦わば、心はたけしといえども、手足くたびれて心に任せぬことあるべし。ここにこそ謀のいるところなれ。清良案ずる行(てだて)は、先刻、土佐方を打って取り、拾いたる旗、差し物をことごとく取り持たせてさし上げ、外記が味方の勢と思わせ、彼が後ろより旗本へ押し寄せ、油断したるところを、侍も皆々鉄砲にて山内が勢を打ち立てたらんには、何の雑作もなく攻めくずすべしと思うが、面々この行(てだて)はいかにとありければ、皆、もっともときおい立ち、さらばとて人をすぐり、二百余人に西城馬爪へ土佐者の旗ささせてつかわし。清良は百余人にてこれも若藤が旗をささせ、伝久院に上がり、河添には土居の旗ささせ。ねずみの尾より蜂の巣へかかりければ、山内これに向かい、土居は小勢なり、取りこめて打ち取れと、下知(げち)す。河添、心に思いけるは、かりそめにも大将の旗を立てるは、わが冥加(みょうが)なり、少しもおくれなば、外記をば謀の勢に討ち取らるべきぞ。我こたび外記を討ち取らずんば、二度(ふたたび)弓矢を手にとるまじと、心中に誓いて出でけるは、たのもしくこそ見えにけれ。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の二六二㌻天正三年二月二十八日の暮れから始まる戦は、元親の弟親泰が指揮を執り、千余騎にて三間へ攻め入るが、迫目にて大将山内外記が討死している。二六五㌻下段の最後から、二六六㌻の始めにかけての記述には「西城馬爪」「ねずみの尾」の名前があり、更に続く「蜂の巣」の名前から、迫目城の「下城」と特定する事ができた。この名前は、「下城」の麓を流れる三間川に架かる「蜂の巣橋」として今も残っている。なぜそのような名前なのかは不明だが、『清良記』にある名前として、これからも大切にして行けたらと思う。
(写真は、三間の郷社三嶋神社から望む泉ヶ森と迫目城。)



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by kiyoyoshinoiori | 2017-08-23 18:36 | 清良記

□『清良記』を紐解く会より

 新緑の候、皆様におかれては益々ご健勝の事と思います。さて1月からスタートした『清良記三間土居旧本』の翻刻も順調に波に乗って来たように思っておりますが、毛筆で書かれた崩し字を見るにつけ、先駆けて全文翻刻を出版された、松浦郁郎先生の功績とご苦労の大きさを身に染みて感ずるところです。
 1月から5月までの翻刻はすでに会報を通して手に取っておられると思いますが、それは私一人の研究発表のようなもの。それをたたき台にして参加者全員による確認作業を行い、間違いの訂正や不明箇所の特定を行い、その上で、柚山俊夫先生にお墨を付けいただくというのが現在の取り組みです。
 そして、6月からは、東京都あきる野市在住の土居秀夫会員による翻刻がたたき台となります。行く行くは巻二十三『岡本合戦』と関連個所を収録した冊子を出版したい考えですが、私一人の作品にはしたくありません。これからは希望される方には原文コピーをお渡ししますので、『清良記』を紐解く会に参加する全員で作りあげる事業として参りましょう。


□「第八回長宗我部フェス」に参加して

 5月20日(土)は晴天に恵まれて、今年も「長宗我部フェス」に出席して参りました。今回の収穫は、主催者代表であり前高知県立歴史民俗資料館の館長、現在は高知県立図書館の館長である土佐史談会の宅間一之会長とお近づきになれた事です。会長には、土佐史談会への寄稿のお許しと、岡本合戦の年数問題について一緒に研究していただけるという約束をしていただく事ができました。しかし、それもこれも全ては私達のやる気ひとつに掛かっています。是非、皆様のご尽力を宜しくお願い致します。



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□「迫目岡本家研修」について

 三間史談会の本年度の町内研修は、迫目村庄屋の後裔で三間村の発展に大きく関わった岡本家を訪問する内容で準備を進めています。これはひとえに、昨年入会された岡本裕之会員のご厚意と感謝していますが、これまで岡本家と交友のあった池本覺先生、庭園の見立てに詳しい「三間の自然を守る会」の武田利康先生と打ち合わせながら、今までにない岡本家について学べる研修になるであろうと期待しています。



                            三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸






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by kiyoyoshinoiori | 2017-06-05 10:58 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 December 2016

『巻一』から『巻三十』までを紐解いてみると、『清良記』のメッセージは首尾一貫しています。また、『清良記』が著された動機は、『巻一』一章の最後の一節に凝縮されている事が分かります。

「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。
されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。
真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、
深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰にか見せん。
梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。
しかはあれど遼東の豕(いのこ)にやありなまし。」
(『清良記 松浦郁郎校訂』三頁)

『清良記』とは、江戸時代となり、宇和島が伊達家の治世となって三十八年が経ち、戦国時代の面影も忘れかけそうになっていた頃、三嶋神社の神主であった土居水也が、土居家の武名を後代に伝え残そうと書き上げた、戦国武将土居清良の一代記であったといえます。故に『清良記』は軍記物語であり、史実を扱うよりも、教訓としての色彩が濃く出ている事でしょう。しかし、そこには資料的価値があると言って余りある程の、生き生きとした戦国の世の息遣いが聴こえてきます。

三間史談会は、そのような『清良記』を宝とし、水也が伝え残そうとしたメッセージが何であったのかについて紐解いて行きたいと思います。

文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-12-01 16:31 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より

十月二十九〜三十日『三間町産業文化まつり』が開催されました。三間史談会は「松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展」を出展。大変貴重な展示に、来場者の中には非常に強い関心を持たれる方もおられ、戦国時代の話に花が咲きました。

やはり「清良記」といえば三間町、三間町といえば「清良記」なのです。清良記を記録し保存して行く事や、清良記を紐解き語り継いで行く事は、三間の人間が責任を持って行かなければならない事だと強く感じた次第です。来年からは三間本を紐解きながら資料作りをします。ぞうぞよろしくお願い致します。


□『巻三十』最終巻(二回目)p.403〜p.417

最良記は三十巻もの大作ですが、その最後まで渾身の力が込められており、話は多岐に渡って面白く、示唆に富み、非常にメッセージ性を含んだ物語だといえます。「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と清良公が詠んだ歌は、本当は石城で自刃すべきだった筈を、土居の家督を背負い今日まで生きてきた事への感嘆を吐露したものであったのでしょう。故や、石城の土居一族の自刃は、主人を変えて生き延びる事を恥として、名誉の死を選び、清良をして再興を託した上での事でした。巻三十には丸串城代(現宇和島城)への仕官の誘いを断るというエピソードがありますが、それは騙し討ちを恐れたからではなく、土居家の生き方や清良公が今日まで生きて来た理由とは掛け離れたものであったからだという理解をしていただければと思います。


文責/三間史談会 松 本 敏



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by kiyoyoshinoiori | 2016-11-01 21:30 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん