タグ:清良記 ( 67 ) タグの人気記事


    
第三回『清良記』・後半


 元亀三年正月、清良公が一条尊家と和議を結んだ事で三間に平和な一時が訪れます。清良公には嫡子太郎重清が誕生。翌年の天正元年には先祖の供養をする為、高野山、熊野三山、伊勢神宮に参詣しますが、戦国時代の最中にあって本当に驚くべき記事ではないかと思います。しかし、その十一月に元親は遂に土佐から尊家を追い出して、いよいよ清良公と元親との決戦が始まろとしていました。

 第三回は、このまま清良公の隠棲までを語りますが、全てを語り切れない事をご了承下さい。そして、またいつか一緒に勉強会できますように。



    
高野山参詣(巻十七)


 天正元年は、永禄三年に石城が陥落して十三年が過ぎた年、清良公は先祖の菩提を弔う為に高野山に参詣する許しをもらいます。船の案内は来島飛騨守。来島氏は、来島城主村上通康の四男通総が秀吉から重用されて祖となり、後に河野氏、村上氏、毛利氏に反旗を翻す事になります。

 出立は三月五日、来島の瀬戸より船を出し、道中は海賊共を打ち払いながら到着したのは「天保の津」という所。ここは現在の三重県津市と考えられます。戦国時代は信長の子信包の領地でしたが、慶長四年から十三年の間は富田信高が領地しています。

 清良公が高野山で宿泊した宿坊は小田原上蔵院。上蔵院は、河野氏が伊予国人の宿坊として定めており、清良公は一族と討死した被官の為に一万本、又、病死した者の為に二千本の卒塔婆を供養し、僧房に布施をして帰路に就いたとあります。

その道中に熊野参詣、伊勢参宮を果たし、大阪には行きも帰りも逗留し、大阪の出立は六月二十日、海上日和順風良く、来島へは同二十二日の帰着となりますが、実に三ヶ月を要する旅でありました。



    
清良の撫民(巻十八)


 天正元年は、また大旱魃と長雨を繰り返す年でもありました。四月二日から五月朔日まで雨降らず、二日から七月六日までは雨降り続くとあり、清良公が大雨の中で帰郷した事も分かります。そのような中で起きるのが飢饉です。清良公は宗案を呼び相談した上で十二月に領民に米を配りますが、その米は籠城する時に、兵糧米として備蓄しておかなければならない筈の米でした。しかし、清良公はこう言います。

「我が領民は、それぞれの家職上手にして、勇なる事は武士にも劣らず。彼ら物前にて勇み進んで敵の備えを打ち破る時は、金をして北斗を誘う如くなり。民を養う事は古の聖君、堯舜もなおやめりと言えり。懸る時を於いて民を救わずば領主たらず」と。



    
長宗我部元親との合戦


 巻十八に拠れば、元親勢が伊予に手を下した初めは、天正二年十月まで続いた渡川合戦にて、元親に従わなかった土佐者が、元親の機嫌を取る為に河原渕口に侵入したのを始まりに、十一月二日には元親の侍大将福富隼人が河後森城を巻き詰めます。

 困ったのは河原渕教忠です。尊家の時は戦わずに城を明け渡していた教忠も、此度は西園寺に後詰を願い、清良公には加勢を頼みますが、面白くないのは清良公です。

「旗頭の下知なくては、自分より計らいがたく候」と、西園寺から言われんと行かんでと返します。

そして十一月十一日が初合戦。敵大将は福富隼人と国吉刑部でした。巻十九からは山内外記が土佐の大将として登場します。山内外記は一条氏の旧臣の中では非常に評価の高い武将ですが、清良公を破る事はできず、三間は土居七口の鑓と言われます。

しかし、戦は武略だけが全てではなく、宇和郡は調略という形での切り崩しが進められて行きます。その内通者となって行くのが芝美作と一覚ですが、巻二十には「天正八年に芝美作が公広卿を欺きて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、此の五カ所元親に取られける」とあり、その最中に起きるのが有名な【岡本合戦】という事になります。



   
輝元への加勢と信長からの調略

岡本合戦は、天正九年五月二十三日の夜に起きる戦ですが、突然起きた合戦ではありません。先ず巻二十一には、天正七年正月に西園寺公広が信長の執事楠長庵に調略されており、毛利輝元との手切れを唆されています。そして同八年に手切れとなりますが、長宗我部に宇和郡を侵略させない後盾になってくれていたのも毛利輝元だったのです。その流れで天正八年の三滝合戦、天正九年の岡本合戦が起きたと見れば、直後に起こる信長の四国攻めも理解ができるのです。一度は元親に四国を好きにさせた筈を完全に反古にして三好松岸に阿讃を与えます。

ところが歴史はどんでん返し。信じられない謀反が起こりますが、明智光秀が率いた本能寺の変です。信長は自刃し、三好は畿内に逃げて形勢は元親有利。ところが光秀は討ち取られ、秀吉によって四国征伐が成されて行くのでした。


   下城(巻三十)

時は天正十五年十月下旬。清良公は「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔も懸る事のありけん、その名を「隠れ宿」という所に、細々と浅ましく、庵引き結ばせて入られける。嘆くべき道ならぬとは言いながら、昨日まではさも勇ましかり武士、旗下とは言いながら、六百余騎の大将、手前の士ばかりも二百余騎に守護せられし人の、いつしか今日は引き替えて、主従二十人ばかりの外は、出入りの事も無用なりとあるは、哀れとも言うばかりなり。と『清良記』は隠棲した清良公の悲しげな姿を描きます。

 隠棲した後の清良公は、戸田政信や藤堂高虎などからの「丸串城代に取り立てたい」という申し出は断わって、新領主に歯向かい謀反を起こそうとする古い仲間とも組みせず、ひたすら気を静めるように説得役を買って行きますが、それは賢く振る舞って殺されたくなかったからではありません。

 清良公は「古代の味方を狭めて、当代の強き方へ付き、褒美の米を受けては人の志す所なく恥ずかし」と言い、また「知行を取りて城を守るべきは政信の被官なり、知行とらで守るべきは門番に似たり」とて、遂に受けを申されざりと苦しい胸の内も漏らしていますが、このような清良公の内心は、下城する際に詠んだ歌の中に集約されています。

つまり、清良公は石城で親兄弟と一緒に死にたかったのですが、それが許されず、今日まで土居家の当代を勤めて来ました。故に、命を顧みぬ程の気概を持って、義を貫き通す生き方ができたのですが、遂にそれに背く時が来たという事なのです。(松本)


・富田信高(とみたのぶたか)

      生年不詳。寛永十年二月二十九日没

      秀吉の家臣。慶長四年に津藩主

      慶長十三年九月に宇和島藩主

・藤堂高虎(とうどうたかとら)

      弘治二年一月六日生。寛永七年十月

      五日没。秀吉の家臣。天正十九年に

      宇和島藩主。慶長十三年に津藩主

・河原渕教忠(かわらぶちのりただ)

      生没年不詳。河後森城主

土佐一条氏の東小路家から伊予の

河原渕家に養子に入る。蕨生に蟄居

・西園寺公広(さいおんじきんひろ)

      天文六年生。天正十五年十二月

      十一日没。来応寺の僧だったが

      還俗し宇和郡旗頭となる。

・河野通直(こうのみちなお)三十九代

      永禄七年生。天正十五年

      父村上通康、母宍戸隆家の。

      毛利輝元の甥に当たる。

・毛利輝元(もうりてるもと)

      天文二十二年生。寛永二年没

      祖父毛利元就。父毛利隆元

      妻宍戸隆家の娘。通直の伯父

・織田信長(おだのぶなが)清良記は将軍という

      天文三年生。天正十年六月二日没

      尾張国古渡城主。足利義昭を担ぐも

      元亀四年には義昭を畿内から追放。

・楠 長庵(くすのきちょうあん)楠木正虎

      永正十七年生。文禄五年一月没

      楠木正成の子孫と自称している。

      織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣

・三好松岸(みよししょうがん)父三好長秀

      生没年不詳。阿波岩倉城主

      別名に笑岩、咲岩、康長、康慶

      織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣

・明智光秀(あけちみつひで)惟任日向守光秀

      享禄元年生。天正十年六月十三日没

      織田信長の重臣。本能寺の変首謀者

      長宗我部元親を調略したとされる。

・豊臣秀吉(とよとみひでよし)戦国一の出世頭

      木下→羽柴→藤原→豊臣。関白→太閤

天文六年生。慶長三年八月十八日没

      天正五年中国攻め。十三年四国征伐

・戸田政信(とだまさのぶ)勝隆、氏繁、氏知

      生年不詳。文禄三年十月二十三日没

      豊臣秀吉に仕えた家臣。古参の直臣

      天正十五年伊予に入部。圧制を敷く






[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-08-11 22:06 | 公民館


    
第二回『清良記』・前半

 清良記の前半で絶対に外せない話は「石城合戦」です。ここに戦国武将としての土居清良公の原点があると言って過言ではありません。なぜ石城合戦で土居氏は自刃の道を選んだか。自刃にはどのような意味があったか。その時に清良公に託された使命と心の内を知れば、清良記の謎、その読み解き方が自ずと理解できるようになります。

 又、前半で欠かせないのが土佐の一条尊家公との関係です。清良公は土佐落ちして、一旦は一条公に仕えながら三間大森城に帰城を果たしますが、謀叛の嫌疑を掛けられて戦に突入。しかし、長宗我部氏の台頭が目に余るようになると、宇和の西園寺氏と土佐の一条氏に和議を結ばせて行きます。



    
石城合戦(巻三)

 石城合戦では土居氏の一族郎党上臈下婢に到るまで百二十二人が自刃します。その内訳は末座より腹を切りはじめますが、大将宗雲、嫡子清貞、二男雲影、四郎清永、五郎清象、六郎清由、七郎宗明、八郎宗真、九朗宗信、宗光、清延、為友、孫二十三人、郎党四十九人、上臈下婢三十八人でした。


   ・辞世 大将伊豆守清宗入道宗雲大居士

   柱石武門威気新 巻旗今去宝楼場

   安禅只豈借山水 除却気情火自涼


   ・辞世 嫡子備中守清貞

   挙旗法戦城 陣脚幾影名

   智劔出来看 心頭日日明


   ・辞世 二男真吉右衛門入道雲影

   長守鉄城定弱強 功成名遂別無望

   南軍左祖非吾事 覚了法身此戦場


 そもそも石城には天文十五年三月朔日、宇和旗頭西園寺公の懇願があって、立間、喜左方、立間尻、三百貫を領地したものでしたが、豊後大友の大寄せが始まると、永禄三年九月十一日に西園寺公が降伏してしまいます。土居氏がなぜ降伏せず自刃したかについては、巻二最後にある宗雲の言葉、また巻三の五章「石城崩れの事」にある妙栄の言葉に理由を探す事ができます。「侍は名こそ惜しまれ申し候え」という宗雲、「すべて心静かに自害して、首を敵にとられざるを高名にせよ」という妙栄の言葉からは、どこまでも名誉を重んじる土居氏の気魄を伺う事ができるでしょう。

 そして、妙栄は十五歳の清良公を土佐に落として家の再興を託す提案をしますが、聞き分けないのが清良公。共に死にたいという清良公を大いに叱り、九月二十九日夜から三十日暁に掛けて、四人の家老と姉お松、小姓衆を合わせ七十余人での土佐落ちを決行させて行くのでした。



   
土佐落ち(巻四)


 巻四の一章は「清良、土佐へ落ちられる事」ですが、すぐに土佐に出立できない清良公の姿が描かれています。そして、一族自刃の報を聞くと意を決し、土佐に向かいます。自刃は永禄三年十月五日朝の事だったといいます。

 土佐で頼りとするのは土佐一条氏初代房家の時から家老を勤める土居宗三=土居近江守家忠です。家忠は房家の弟でしたが、宇和西園寺と土佐一条の和議があった際に土居の娘お初を娶り、土居の武功にあやかって土居姓を名乗っていました。

 清良公はいくら祖父母の考えであったとしても、もし家忠に受け入れてもらえなければ、刺し違えて死ぬ覚悟をしていましたが、その心配もなく大変な歓迎を受ける事になります。そして、一条尊家から高島に百貫の領地を与えられ、高島岡の前に居住したとありますが、高島は現在の竹島の事で、当時は事情があって領主不在の地となり家忠の預かり分となっていました。



   
大森帰城(巻六)


 尊家に忠義が認められた清良公は永禄五年七月十二日に晴れて三間大森城への帰城を果たします。時に清良公十七歳、皆が喜びの余りに転げ回る程、上も下もなく飲食を持ち寄っての宴会となります。

 翌十三日は旧領主達との接見。十四日には魂祭りを準備。それは「生ける者どもを一飯にても助けん」という清良公の願いからでした。それに一花、法田両和尚も賛同し、十五日には大森城にて三間の全ての領民に赤飯が振舞われたのでした。



   
親民艦月集(巻七)


度々の飢饉に疲弊する領民の姿を見て、清良公が力を入れた一つが農業でした。巻七は「親民艦月集」と呼ばれる日本最古の農書として有名ですが、ただ農業技術だけを求めた清良公ではありません。先ず「上農」という言葉があり、「五戒五常」を行う事を第一とした国作りをして行かれました。

第一 神祇を祭り公儀を立て法に背かず

第二 五穀を時節相応に仕付け、小作として菜園

を能く仕、妻子に菜園の取り様を教え

第三 大作とて木竹を植え実を取り家の修理し

第四 野宝とて牛馬を持ち犬猫鶏をやしなひ、猫

   は鼠をおさへ、犬は火事盗人の用心、鹿兎

をして作を荒らさしめざるため、鳥は時を

知るため

 第五 下人小供等を扶持すべき心おこたらずし

    て賄をよくし

 第六 公事喧嘩をせず

 第七 見物、色好みをせず

 第八 居所、衣食を擅にせず

 第九 氏・系図・達をいはず

 第十 猟漁りをせず


 この末五つのせぬ事をせずして、上の五つに精を強く入れ、諸事倹約を本として衆寡孤独を憐れみ、夫婦納得仕るを上農の大筋目の心持に致し候。されば上農は居所を専らにする事武家にて屈強の城廓を構えられるが如し、上分の居所は背後に山を負って、前には田を踏まえ、左に流れを用いて、右に畠を押え、云々と、これらは現代の私達の生活信条にも通じており、三間の気風にしてはと思えるような内容があります。



   
清良の謀反(巻八)


 
永禄七年正月二十日、清良公の心配事は長宗我部の台頭でした。このまま一条が長宗我部に下るような事が起これば、人質を取られている清良公もまた長宗我部に下らなければならなくなります。清良公は忍びに人質の奪還を命じますが、七月六日の夜半過ぎにお初とお松を忠家の屋敷から連れ出す事に成功。七日の暮れには輿で三間まで帰り三嶋神社に匿われますが、尊家の咎めたはなかったといいます。この出来事の前の月、尊家は諫言をした家忠を誅殺しており、何かしら負い目なり思うところなりがあったからではないかと思います。

 そして、十月十二から十四日に掛けて起きた一条の番手衆との諍いが発端となり、十二月には一条軍との合戦が始まります。これが清良公初めての軍法でした。



   
鉄砲鍛冶(巻九)


 合戦となり清良が力を入れたのが鉄砲鍛冶です。永禄八年に忍び丹波と丹後の才覚で、江州甲賀薬師堂玄蕃吉久という鉄砲鍛冶の一団を十三人、三間に招き入れ、昼夜を問わず鉄砲の生産と改良を行っていきます。石城合戦では水が勝敗を握ったとも言われますが、実際には鉄砲の数が決定的な敗因だったのです。



   
一条尊家との和睦(巻十五)


 巻十三を読むと、尊家は長宗我部への疑いを持ちながら、先ずは伊予の三間を従えようと考えていた事が分かりますが、巻十五では贈り物でも張り合う清良公と尊家の関係に驚きます。そして、長宗我部の侍江村備後が土居を調略し、共に手を組んで尊家を亡ぼすなら宇和の旗頭に取り立てようと話を持ち掛けてきた時、清良公は調略に乗ると見せかけて元親への密書を奪い取り、尊家に渡して元親の陰謀を明らかにします。清良公に感謝と信頼の思いしかなくなった尊家は、全ての人質を大森城に返すのでした。                (松本)



   
人物の紹介


・土居清宗(どいきよむね)石城で自刃

      土居家十一代。清良の祖父

      入道し宗雲と名乗る。石城の城主

      妻は河野通高の孫で通頼の娘妙栄


・土居清貞(どいきよさだ)石城で自刃

      土居家十二代。清宗の嫡男

      大森城主。娘にお初、お松がいる

      末の嫡男良元が後の真吉新左衛門


・真吉清影(さねよしきよかげ)石城で自刃

      入道し雲影と名乗る。嫡男影頼も自刃

      土居清宗の次男。真吉家の家嗣だった


・土居宗三(どいそうさん)土居近江守忠家

      土佐一条初代房家の弟で筆頭家老

      土居清貞の娘お初が後妻に嫁ぐ

      前妻との間に嫡男土居治部がいる


・一条尊家(いちじょうたかいえ)土佐一条四代

      天文十二年生で清良の三つ年上

      天正十三年七月一日没(四十三)

      母大友義艦の娘、後妻大友義鎮の次女


・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)十五代

      天文八年生で清良の七つ年上

      慶長四年五月十九日没(六一)




[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:57 | 公民館


清良記を紐解く会より August 2018


三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸  


 平成三十年七月二十一日(土)公民館事業【清良記を繙く】第二回が行われました。参加者は十八名。今回の勉強会が特別だったのは、西日本豪雨で被災した人や災害支援活動に従事する人がいる中での開催となった事です。「このような気の滅入る時だからこそ娯楽を大切にしよう」と、皆が納得して下さり、今回の勉強会は犠牲者に黙祷を捧げるところから始まりました。第二回の内容は、『清良記』の前半(巻一~十五)。「石城合戦」「土佐落ち」「大森帰城」「親民艦月集」「清良の謀反」「鉄砲鍛冶」「一条氏との和睦」等でしたが、永禄三年十月五日に土佐落ちした清良公が永禄五年七月十二日に三間の大森城に帰城を果たした時、先ず清良公が為したのは戦没者の供養です。しかし、それは大森城に赤飯を準備して「生ける者を一飯にても助けん」という思いがあったからでした。



 このように何か大きな災害があった時、一番疲弊しているのは家族を失った人達です。故に昔ながらの祭は慰霊や供養の目的があって、そのような祭を通して残された人達の心を慰労する事もできたのですが、今回の豪雨災害では和霊大祭を始め多くの祭が中止を余儀なくされました。それは、それだけ被害が甚大だったからではありますが、現代の祭が慰霊や供養という目的よりも遊びやイベント性を重視する向きが肥大していたからではないかと思うのです。それでも和霊神社では神事だけの復興祈願祭が行われましたが、それを見守った市民の声には「本当に重要な祭だった」「本物の和霊大祭を見た思いがした」等の声が聞かれました。今後の郷土の復興はまさに、このような祭から始まるのだと思ったような次第です。




c0363691_09523987.jpeg




c0363691_09525541.jpeg




c0363691_09531095.jpeg






[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:49 | 郷土史

□清良記を紐解く会より July 2018
 

         
 

 平成三十年度、遂に『清良記』の勉強会が三間公民館事業となりました。これは平成二十五年から五年間、三間史談会が取り組んで来た『清良記』を紐解く事業が一つの形として実を結んだ成果だと思います。

 公民館事業では『清良記を繙く』と題する四回シリーズの勉強会になっています。しかし、『清良記』の内容は膨大すぎて、その中でどの部分を紹介して行けば良いかという事が求められる所です。

 第一回目は六月二十三日(土)に第二研修室にて十九人の参加が見られました。内容は「清良記概観」「清良記の目的」「土居氏根源先祖」「登場人物」等でしたが、三間土居旧本の解説も行って大変な盛り上がりとなりました。

 次回は七月二十一日(土)ですが、「清良記前半」について解説をします。ここで外せないのはなんといっても「石城合戦」です。ここに戦国武将たる土居清良公の原点があると言っても過言ではありません。なぜ石城で土居氏は降伏せず自刃の道を選んだのか。自刃にどんな意味があったのか。その時の清良公の使命と心の内について解説したいと思います。そして、一条氏に仕える事になった清良公が大森帰城を果たして三間で真っ先に行ったのが農業と鉄砲改良ですが、それらが合戦に強い清良公の特有のイメージを作っており特筆したいと思います。又、前半の転機は長宗我部氏の台頭ですが、一条公に仕えながらその被官を調略して行く長宗我部氏の手先が土居に及んだ時、逆手に取って長宗我部氏の謀反を暴き、西園寺公と一条公の和議に結び付けた事は見過ごせない事件だと思います。さて何が飛び出しますか!七月も『清良記を繙く』へのご参加をよろしくお願い申し上げます。



c0363691_15301071.jpeg



c0363691_15305444.jpeg



c0363691_15313975.jpeg





[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-06-27 15:28 | 元親記

続・岡本合戦の年数問題


続・岡本合戦の年数問題


松 本 敏 幸


   はじめに


 「よど第十七号」に『岡本合戦の年数問題』を寄稿しましたが、事は重大だけに再び筆を執ります。

 岡本合戦の年数に関して、平成年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第三号』が「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」と述べた事に対し、注記『伊豫史談一一三号』『愛媛県史』が「天正七年説」の根拠になっていない事は論証しましたが、それより深刻な問題が昭和四十四年発行『愛媛県編年史』にあります。

そこで今回は、『愛媛県編年史』の性格と問題点を指摘しながら岡本合戦関係史料を批判します。



第一章 『愛媛県編年史』の性格


 『愛媛県編年史』は河野氏史料優先です。六五頁の天正七年の要約に「長宗我部氏の将久武親信、山田外記ら宇和郡に来襲して岡本城を攻める、河野通賢・土居清良ら力戦してこれを敗走させる」とあるのは河野氏史料だけが主張している事であり、『清良記』では通賢こそが土佐に内通して岡本城を盗み取らせた張本人としています。この二者の関係は明らかに矛盾していますが、無批判に河野氏史料を採用しているのが『愛媛県編年史』といえます。

事実に目を向けてみれば、河野通賢の岡本城は合戦以後に土居清良の支城となり、その麓は土居垣内村と呼ばれます。もし通賢が応戦していれば、どんな理由があろうと土居の城にはならなかったでしょう。ここに一つの結論が見えます。



第二章 『愛媛県編年史』の問題点


『愛媛県編年史』は、岡本合戦の天正七年説を主張する為の編集となっています。「予陽河野家譜」から始まり、次に「伊予史談一一三号」で天正七年説の根拠にされた「緒方文書」が並び、後に続く「土居文書」や「清良記」には(天正七年カ)という注釈が付されます。そして、土佐史料である「元親記」や「長元物語」が並ぶのですが何かがおかしい。「予陽河野家譜」は成立年も作者も不明な上、岡本合戦の当事者でもありません。天正七年説ありきとする為だけの編集は、次に紹介する「土佐国編年紀事略」の扱いに非常に深刻な問題を残しています。


〔土佐国編年紀事略〕

竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書二、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札二至テ初メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年(天正七年)二俊光戦死セシヲ其子親父二継モノ疑ナキ歟、故二佐竹系図二ヨツテ七年トス、

元享院蔵古文書二、去年天正六戊寅四月、従土州諸軍勢発足之砌、以貴院御才覚、被仰調候而、山内俊光公・津野親房公、却而為静狼藉与放火、被加警固、寺家安全之段、自他之覚此事総而為謝貴院大功念、(中略)

   天正八年八月廿九日            竜沢俊派(花押)

    進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

                   (『愛媛県編年史・五集』七五頁)


 一見して何を述べたいか不明な文書ですが、岡本合戦の年数を考察した文書だと思えば、文末の「天正八年」という年数を見て、岡本合戦が天正九年に起きた可能性などあり得ないという印象を受けます。

ところが実際はそうではなく、前半は『土佐国編年紀事略』の作者の考察であり、江戸時代後期の文書です。そこに天正八年の文書を追記して、あたかも同じ一つの文書であるかのように見せているのです。しかも、別々の頁にある文書を抜粋し、前後を逆に入れ替えて並べており、このような史料の扱い方には疑問を禁じ得ません。特に前述のような誤解を招く恐れがある場合は、今からでも公に訂正をして然るべきです。

 時の愛媛県知事は久松定武、教育委員長は三間町名誉町民の竹葉秀雄です。竹葉委員長は昭和十年に『土居清良』という本を著す程の崇敬者だったといいますが、八十二年の時を経て、平成二十九年に『土居清良』が復刻刊行されており、岡本合戦は当然「天正九年」で紹介されています。しかし『愛媛県編年史』にこのような問題があったとは、竹葉委員長はどのようにお考えになられたのでしょうか。もし、後年の研究に任せたのであれば、この編集における問題は、今正すのが良いでしょう。



第三章 「岡本合戦関係史料」の批判


 普通に考えて、史料は成立順に批判して行くのが自然です。とくに軍記物語であれば、先に発表されたものを踏まえて話を膨らませる事も起こり得ます。全ての史料を横並びに扱えば、見えて来る物も見えて来ません。主な関係史料を成立順に並べ岡本合戦の年数の変遷について批判してみたいと思います。


『元親記』寛文八年(一六三一)高島重漸/孫右衛門正重

『清良記』承応二年(一六五三)土居水也/真吉水也

『長元物語』萬治二年(一六五九)立石正賀

『土佐軍記』元禄一三年(一七〇〇)作者不明/小畑邦器

『土佐物語』宝永五年(一七〇八)吉田孝世

『南海通記』享保三年(一七一八)香西成資

『土佐国編年紀事略』弘化四年(一八四八)中山厳水

『愛媛面影』明治二年(一八六九)半井梧庵

『予陽河野家譜』(成立年不明)作者不明


『清良記』と同時期の『元親記』『長元物語』には年数の記述がなく、「天正七年」は半世紀程過ぎた『土佐軍記』に初めて記述されますが、『土佐物語』は「天正九年」と記述しており、土佐に岡本合戦の年数に関する史料がなかった事が分かります。

又、讃岐の『南海通記』は間を取ったかのように「天正八年」を記述。このように「天正七年説」は非常に不確かなのです。

江戸時代の後期には、『元親記』から二百年後に発表された『土佐国編年紀事略』が「佐竹系図ニヨツテ七年トス」と述べましたが、佐竹系図には天正九年で書かれたものもあり、家系図や碑文や手紙も後代に創作された場合がある為、確かな史料になりません。

ところが明治に出版された伊予の『愛媛面影』は『土佐軍記』をそのまま引用した形を取ります。そして天正七年説を流布する結果となるのですが、それは『予陽河野家譜』も『土佐軍記』を元に岡本合戦記を創作しており、河野通賢が残した史料が何もなかった事を意味しているのです。



   おわりに


『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第三号』が、「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」と述べた事は言い過ぎであり、この場を借りて撤回を求めます。天正七年説を支持する研究者が何人いようが、それは研究者の研究が不十分なのであって、今後の研究には冷静で客観的な判断を求めます。



以上


愛媛県宇和島市三間町宮野下七五〇

松 本 敏 幸




c0363691_07463316.jpeg



c0363691_07481600.jpeg



c0363691_07483731.jpeg



c0363691_07490084.jpeg



c0363691_07492995.jpeg



c0363691_07495534.jpeg



c0363691_07502801.jpeg



c0363691_07515965.jpeg



c0363691_07522423.jpeg



c0363691_07524450.jpeg



c0363691_07530223.jpeg



c0363691_07532206.jpeg



c0363691_07534409.jpeg



c0363691_07540544.jpeg



c0363691_07542657.jpeg



c0363691_07544752.jpeg



c0363691_09221105.jpeg



c0363691_09223585.jpeg



c0363691_09225873.jpeg



c0363691_09231805.jpeg



c0363691_09233846.jpeg





[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-06-03 08:19 | 論文

 平成30年度、6月から9月までの4ヶ月間において、三間公民館主催の事業として「郷土史学級『清良記』を繙く」を開催する運びとなりました。講師は小生、三間史談会会員の松本が引き請けます。これまで研究団体である三間史談会では、批判的に清良記を紹介してきましたが、公民館事業ではより素直に清良記の世界を紹介して行きたいと思うています。以下は、第一回目のテキストとなりますが、三間史談会并三間郷土史研究会の会報にも掲載する予定です。内容は努めて簡潔にしていますが、落としている情報は学習会にて補講して行きますので、会員は是非受講していただければと思います。尚、公民館事業を引き請ける4ヶ月間は、三間史談会での清良記はありませんのでよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m


☆★☆★☆





(せい)良記(りょうき)』を(ひもと)


三 間 公 民 館 ・ 松 本 敏 幸







(せい)良記(りょうき)』を(ひもと)


  はじめに


 『清良記』は三間の宝物であり、そこに描かれた物語の主人公「土居清良」は、郷土が誇る戦国武将です。今回の公民館事業では、『清良記』への理解を深める事を通し、郷土愛を育む事を目的として、『清良記を繙く』と題した四回にわたるシリーズを準備しています。講師は、三間史談会で『清良記』を研究している松本敏幸が務めますが、今後の発展を大いに期待しております。皆様、最後までどうぞよろしくお願い致します。



概要

・第一回

  「清良記概観」「作者、成立年、目的」

「土居氏根源先祖」「登場人物」など

・第二回

  「清良記前半」「石城合戦」「土佐落ち」

  「土佐一条氏との合戦と和睦」など

・第三回

  「清良記後半」「長宗我部氏との合戦」

「毛利への加勢と織田の調略」「下城」など

・第四回

  ※特別講義『岡本橘合戦秘話』



    第一回『清良記』概観


 巻数は三十巻あり、巻第一より巻第三十まで巻毎に製本されていますが、原本は不在となっています。三間町政で指定文化財となった土居享市氏寄贈の清良記は、写本の三間土居本と呼ばれており、この他にも現存する清良記はいくつかありますが、全て写本とされています。

 成立については、江戸時代の萬治二年に清良記について調査した記録が発見されていますが、著者は三間の三嶋神社神主で土居氏の一族であった「水也」という者。その水也が承応三年に亡くなる前年に書き上げたのが、清良記であったとされます。

 清良記は土居清良公の一代記であると言われますが、実は清良公の生涯の半分までしか記述されていません。つまり、清良公は寛永六年に八十四年の生涯を閉じますが、清良記には慶長元年に丸串城代を辞退したという五十一歳から後の記述がありません。清良公が戦国時代の人物である事は間違いありませんが、生涯の半分は江戸時代に生きており、宇和島伊達家の筆頭家老であった山家清兵衛公が亡くなった元和六年より九年も後まで生きていたという事を知っていただきたいと思います。

 山家清兵衛公は三十三回忌の承応二年に正式に山頼和霊神社として祀られますが、清良記は同年の成立であり、また九年後、清良公も三十三回忌を以て清良神社に祀られていきます。萬治二年の調査からは二年後の事であり、宇和島伊達家と清良公には只ならぬ関係があったように思えます。



   清良記の目的


 清良記が著された目的については、巻一の一章の最後の一文を紹介します。


「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。

梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし」

(『清良記松浦郁郎校訂・三頁より


 著者水也は土居の一族であり、他家について書くのではなく、あくまで土居家の武功について書き残そうとしていた事が分かります。また巻十四の下の第二章には太平記を批評して


 「いかにある事とても侍のきっかけをひたとはずしたるをば、悪しきことにあいたるように作らるるこそ後までのかがみとも言うべけれ。あの太平記、世間に流布して諸人面白く思いたらば、いとど行きにくき末世。いよいよ侍のきっかけはずし、軍法立ちにくくなりぬと思うはいかに」

(『清良記松浦郁郎校訂・一九一頁より


 と清良公に語らせており、清良記は只ありのままを書き連ねるのではなく、侍の模範とすべき教科書としての役割を持たせた編集にしてある事が伺えます。

 その為に清良公が模範的に描かれる反面、敵対している侵略者は悪辣に描かれています。とくに土佐の長宗我部氏や土佐に内通していた裏切り者には容赦がありません。主に清良記は前半が土佐一条氏、後半が長宗我部氏との合戦ですが、土佐一条氏とは五摂家であり恩義もあった事から奉る記事もありますが、長宗我部氏はその土佐一条氏を乗っ取った事から人非人とまで言われています。



    土居氏根源先祖について


 さて、巻一の一章は『清良記』のまえがき的位置付けとなっていますが、記述を元に土居氏のルーツについて説明を加えておきます。

 土居氏のルーツとして登場する鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経公の家臣として宇和郡に赴任した折、現宇和島市伊吹町の八幡神社にイブキを植えた人物として知られています。この重家が奥州に随行する際、伊予国主河野四郎通信に預けたという嫡子太郎千代松殿が土居氏初代土居清行と説明するのが清良記です。また、清良記は重家と通信が従兄弟の関係であったとしていますが、通信の父は通清、祖父は親清であり、この親清の娘で通清の姉に当たるのが重家の母という関係になります。また千代松の弟は母方の名字を取り徳能三郎能行と名乗ったとされていますが、得能氏の祖として歴史に登場するのは通信の子通俊であるので、これはどう理解すべきか今も腑に落ちない所ではありますが、その末裔が金山城主今城能親という事になっていきます。

 ところで、鈴木重家は紀州の藤白鈴木氏の当主であり、紀州の藤白には重勝、重次、重義という三人の子がおりました。三間の土居氏との関係を疑うのは当然だと思いますが、清良記にも紀州の鈴木孫市から関係を問い質されたという話が登場しています。これには丁寧に説明を繰り返したとありますが、清良公の曽祖父にあたる重宗が書き送ったという狂歌の内容は


 「水上の 濁らば末の 川すすき

    清き流れに いつか澄むべき」


と歌っており、千代松の出身地も藤白ではなく、牟婁郡の土居である事から、藤白鈴木氏の血筋ではあっても嫡流ではない事を暗に匂わせています。

されど千代松は通信の娘を娶っており、河野氏に非常に近い立場で三間を領地していきます。

(松本)



人物の紹介


・土居清良(どいきよよし)『清良記』の主人公。

     天文十五年一月三十日生。

     寛永六年三月二十四日没。八十四歳

     寛文元年『清良神社』祭神となる。


・土居水也(どいすいや)『清良記』の著者。

承応三年に八十余歳で没しており、

元亀三年前後の生まれと考えられる。

      三嶋神社神主。


・土居清行(どいきよゆき)三間土居氏初代。

      鈴木三郎重家の嫡子太郎千代松。

      河野四郎通信の娘を娶り三間を領地。


・鈴木重家(すずきしげいえ)久寿三年生。

      文治五年四月三十日没。三十四歳

紀州藤白鈴木氏の当主。

熊野水軍を率いる。源義経の家臣。


・河野通信(こうのみちのぶ)保元元年生。

      貞応元年五月十九日没。六十七歳

      伊予河野氏二十三代当主。

      河野水軍を率いる。重家の従兄弟。


・山家清兵衛(やんべせいべえ)和霊神社祭神。

宇和島伊達家筆頭家老。天正七年生。

      元和六年六月三十日没。四十二歳



☆★☆★☆



c0363691_11185402.jpeg




c0363691_11192436.jpeg




c0363691_11194312.jpeg




c0363691_11195917.jpeg




c0363691_11201540.jpeg




c0363691_11203427.jpeg




c0363691_11205117.jpeg




c0363691_11210714.jpeg









[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-06-01 10:04 | 公民館

清良記を紐解く会 May 2018


『清良記』を紐解く会より May 2018

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸


 五月を持ちまして、三間史談会主催『清良記』を紐解く会は一旦お休みとなりますが、六月〜九月の四ヶ月間は、三間公民館主催『清良記』を繙くとして継続しますので、会員は是非参加の手続きをしていただけますようにお願い致します。内容は、はじめて『清良記』を勉強するという人を想定した初心者向けの構成にしていく考えですが、十月以降も三間史談会に入会して勉強してみたいという人に出会えるかもしれません。どうぞ皆で盛り上げて行けるよう宜しくお願い致します。


□「三間町誌」を紐解く③ p.134 〜 p.163

 第二編、第七章「安土・桃山時代」は、信長の京入り(永禄十一年)から秀吉が没する(慶長三年)までの約三十年間。郷土史の勉強会では織豊時代とも表現されています。

 第一節「土居清良の活躍」で特筆すべきは、「軍制」の記事で「天正九年より、岡本城が土居の枝城となり」と『清良記』に合った記述を紹介している点です。(ただ侍十二人、足軽二十人、小人二十人については出処不明。)しかし、そこまで書きながら『三間町誌』は「岡本合戦」を天正七年の事として紹介していくのですが、そこに書かれた軍法は『清良記』にないばかりか『元親記』にさえない内容と言えるものです。つまり筆者が咀嚼して空想した作話に他なりませんが、史料の扱いとして一番してはいけない事をしてしまっています。町誌は小説や漫画ではないのです。『清良記』自体が作話ではないかという批判もありましょうが、そのまま紹介をするならまだしも内容を変えてまで紹介をする必要はありません。

 例えば土居似水が亡くなる間際に述べたとする台詞も、似水ではなく清良の台詞です。なぜ話を変える必要があるのか全く理解に苦しみます。

 又、軍法を箇条書きした次の段、岡本城は真吉新左衛門が城代として守っていたという事実誤認が起きていますが、その誤認が全く酷く現れた記事がp.208「戦略の前衛基地岡本城」です。そこには『清良記』の内容の欠片もなく、『清良記』を一度でも読んだ研究者が書いたとは思えない空想があり、大変に悔しく残念に思うのです。ある研究者は「三間町誌は町費の乱費」と批難したそうですが、そう言われても仕方がないと思います。

 『清良記』の内容が真か嘘か?史実か否か?という問題と、『清良記』に書かれてある内容を正しく伝え残す事は別問題と考えるべきであり、内容をよく吟味せず、空想やまた聞きによる内容を言い広めるような事は、今後は一切やめて行かなくてはなりません。それが『清良記』の名誉の回復に繋がる大切な事だからです。


□あとがき

 『三間町誌』の悪口ばかりになっていますが、『清良記』や三間の郷土史について勉強してみたいと思った人が、一番最初に手にする本が『三間町誌』です。もし、そこに問題があれば「なんだ!」という話になります。多くの人が気付かなくても学者や研究者には問題が分かるのです。隠しておく事はできません。ここは先に自己批判です。当事者だけができるのです。以上



c0363691_20013711.jpeg























[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-05-01 08:30 | 郷土史

【第三回清良記シンポジウムの報告】

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

 平成三十年三月十七日(土)、東京から二年ぶりに帰郷された土居秀夫さんと二人で伊達博物館を表敬訪問しました。

 東京で伊達宗城公が所持していたという清良記伊達本の行方を探し、写本を所蔵している国会図書館や伊達家の今戸屋敷があった台東区文化課を訪問しているという土居さんの話には、伊達博物館々長も非常に関心を示していました。

「明治天皇御歌」  伊達宗城今戸屋敷にて

  いつみても あかぬ景色ぞ隅田川

     難美路(なみじ)の花は 冬もさきつつ



c0363691_13543223.jpeg



c0363691_13550445.jpeg






 午後一時からは松野町教育委員会主催「予土国境バスツアー」に参加。三間史談会からは、岡本副会長夫妻、松浦忠志さん、土居秀夫さん、松本の五名が馳せ参じました。

 この企画は、十八日のシンポジウムで発表される亀澤学芸員の発表内容に関する現地研修になっていましたが、松野町には清良記に三つの移動ルートが登場しており、近世の絵図から見ても地名や様子が一致しており、「本当に清良記の通りだった」との説明を聴く事ができ、一同が大変な感銘を受けました。

 ① 須山口ルート…江川崎から西ヶ方、中家路を経て上家路に侵入するルート。

 ② 葛川ルート …江川崎から広見川沿いに葛川に進入するルート。難所とされている。

 ③ 権谷ルート …江川崎から奥野川に侵入するルート。



c0363691_13554343.jpeg



c0363691_13565617.jpeg


 


 十七日の夜は三間史談会・三間郷土史研究会主催の『清良記』の勉強会を開催しました。

 内容は、三月会報に掲載した「三間町誌」を紐解く①でしたが、四月会報分を先行配布させていただきました。勉強の中心となったのは、土居清行の出生地は「藤城」ではないという事。そして、土居氏根源先祖である鈴木三郎重家と河野四郎通信の関係についてでした。


 鈴木重邦―――鈴木重倫

          |――――鈴木重家・従兄

      |―親清の娘

      |

 河野親清―――河野通清―――河野通信・従弟

(二十一代) (二十二代) (二十三代)



c0363691_13573399.jpeg



c0363691_13581282.jpeg





 さて、三月十八日(日)は午前十時から松野町教育委員会の大ホールにて【第三回清良記シンポジウム】が開催されました。

 午前は愛媛の亀澤学芸員「中世予土国境のルートと『清良記』が描く河後森城」、土居学芸員「旧地名からみた河後森城及び城下の復元」、高山学芸員「発掘調査成果からみた河後森城の特徴」の研究発表があり、午後は高知県埋蔵文化財センター松田直則氏の発表「一条氏と長宗我部氏家臣団の城郭構築技術の特徴」、高知大学人文社会科学部・津野倫明教授の講演「一条氏から長宗我部氏へ~渡川合戦の意義~」、最後に愛媛大学名誉教授の下條信行教授をコーディネーターに迎えディスカッション。会場からも意見や質問が飛び交い、盛況の内に閉会となりました。

 皆様誠にお疲れ様でした。心からありがとうございました。



c0363691_13585070.jpeg



c0363691_13591611.jpeg





以 上

 



[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-03-25 13:47 | 郷土史

 『清良記』を紐解く会(資料)

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

☐「三間町誌」を紐解く②

 第二編「歴史」第六章「室町時代」の第三節「有馬殿」(p.108)を見ると、『清良記』と『清良記当時聞書追攷』には土居清行の出生地が「紀伊国牟婁郡藤城」として紹介されているように書かれていますが、実はどちらの史料にも「藤城」とは書かれておりません。おそらく清行の父である鈴木三郎重家が「藤白」の出身である為、牟婁郡に「藤城」という地名があると早合点したのでしょうが、「藤白」は現在の海南市であり和歌山県の北部にあって徳島県の向いに位置しており、「牟婁」は和歌山県の南部にあって三重県まで跨る地域を指します。そしてこの些細な間違いは『清良記』に疑問の眼を向ける結果を作っています。つまり、鈴木三郎重家には、重勝、重次、重義という三人の子がおり、系譜に土居清行は見当たらないという疑問です。しかし、『清良記』が書き残しているように清行の出身が藤白ではなく牟婁郡の「土居」だったという事、そして、紀州の鈴木孫市から根源を尋ねられた重宗が(清良の曾祖父)

  「水上の 濁らば末の川すすき

     清き流れにいつか澄むべき」

と詠んだという狂歌からは「ハハアなるほど」と腑に落ちる所が出て来るように思います。

 また、「伊予国河野四郎、越智通信」は同一人物を重ねて書いており伊予国主河野氏二十三代「河野四郎通信」の事ですが、河野通信と鈴木重家が従兄弟だったというのが『清良記』です。鈴木重家の母は通信の祖父「河野親清」の娘であり、確かに従兄弟だった事が証明されていますが、『清良記』に土居清行の弟が「母方の名字を取り徳能の三郎能行」と名乗ったという事は、河野から得能の祖となる通信の子「河野通俊」か、通俊が領地した西条市丹原町「徳能」に縁があるのではと思われます。

 肝心要の第六節「土居殿」では訂正が非常に多くあります。河野通信が鈴木重家の甥とあるのは従兄弟の間違い。そして、驚く事に「土居氏系譜」が二代から六代まで間違っており

 正しい系譜は、①清行→②重正→③重真→④清真→⑤清氏→⑥重氏→⑦土居備中守清時→⑧重時→⑨重明→⑩重宗→⑪清宗→⑫清貞→⑬清良、となります。

 「石城の戦い」では、清宗の入道は七十歳ではなく六十三歳。妙栄は河野の娘で、祖父が通高、父が通頼と言いますが、通頼の存在は不明。通直の祖父通直の弟通生の子に通高という人物はいますが、同一人物かは不明。清良の石城脱出は十月一日の早朝ではなく九月二十九日の夜。石城での一族自刃は十月六日ではなく十月五日の午前。酌み交わす酒などあろう筈もなく、末座より腹切り始め、主に見せ申さんとて、矢声をかけて逝きました。しかし、なぜ町誌が『清良記』の内容を変えてしまうのかについては大変致命的と言わざるを得ません。




c0363691_15374209.jpeg




以 上



[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-03-13 15:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会(March.2018


三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

 二月は会報に岡本会員の「元成寺」に関する寄稿が掲載されましたので、勉強会はその検証となりました。


 元成寺は『清良記』に登場し、住職の一花和尚は、妙覚寺の法田和尚、西光寺の梅岸和尚と並んで清良公の相談役となり、ある時は土佐との交渉役として活躍します。その元成寺が何処にあったのか、足跡を辿る事は容易ではない現状ですが、三間の中心地が宮野下である事、妙覚寺や西光寺と立場が対等であった事から、宮野下の何処かと考えるのが自然と思われます。三間町誌(p.202)に紹介されているように三間川の北側に寺院の跡を思わせるようなホノギが残されており、現在ある宮野下の白業寺は江戸時代からの建立である事などから、三嶋神社の御旅所の周辺の高地を中心に寺院があったのではないかという印象も受けますが、それも推測でしかありません。


☐「三間町誌」を紐解く①

 三間町誌は平成六年当時の岩崎正巳町長のあいさつ文に始まり、あとがきに至るまで、歴史や文化財の域を超え、ありとあらゆる箇所に『清良記』が紹介されています。


 テーマとして現れるのは第二編「歴史」の第六章「室町時代」と第七章「安土桃山時代」ですが、第三章「奈良・平安時代」の終わりにも「鈴木三郎重家と三間」として紹介されています。この件には池本覺先生が秘話をお持ちです。


 さて三間町誌では室町時代を南北朝が合一された一三九二年からと見ます。そして第一節から直ぐに応仁の乱(一四六七)後に編成されていく宇和郡諸将の勢力を『清良記』『宇和旧記』『宇和郡記』等を対比しながら紹介。西園寺十五将という言葉に関する考え方も整理しています。更に鬼北地方の武将を取り上げて『吉田古記』や須田武男著『中世における伊予の領主』も対比していますが、土居殿の城砦である「松峰城」の説明は「岡本城」の間違いです。


 又、特筆として河原渕殿を渡辺氏としていますが、松野町教育委員会は「渡辺氏を用いず河原渕氏を用いる」としていますので注記しておきます。河原渕氏の研究に関しては【第三回・清良記シンポジウム】の発表を楽しみにして下さい。


 それより問題なのが芝一族の扱いですが、土居家と芝家との不仲の原因が清良と芝四郎右衛門の喧嘩にあるとか、その為に芝家が『清良記』で脇役にされたというのは誤解です。後にも先にも清良が芝を憎んだのは土佐に内通していたからであり、同様に長宗我部を憎んだのも土佐一条家を下剋上し、武士の道に反したからなのです。


☐【第三回・清良記シンポジウム】のお知らせ

 三月十八日(日)午前十時~午後四時、松野町山村開発町民センター(庁舎横)にて行われます。前日、十七日(土)には「予土国境バスツアー」も開催されますが、ツアー参加希望者は松野町教育委員会(亀澤)まで連絡をお願いします。



c0363691_15292429.jpeg




c0363691_15273907.jpeg


以 上






[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2018-03-01 08:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん