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□『清良記』を紐解く会より September 2016

 九月十二日~十六日の五日間、宇和島市役所一階ロビーにて特別展示会『松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展』を開催する運びとなりました。清良記抄(きよよしきしょう)は、昭和四十八年元日~昭和四十九年九月二十一日に渡り、新愛媛新聞(日刊新愛媛の前身)で連載されたコラムですが、松浦郁郎氏所蔵の写本を利用し、昭和五十年発行となる『清良記松浦郁郎校訂』よりも早く世に出された大変稀有な連載だったといえます。
 また、連載の「はじめに」を読んで分かった事は、その写本は、松浦氏が恩師清水岩蔵氏の書写した高串本を複写した物であったこtが分かりました。『清良記松浦郁郎校訂』の作業には、清良記の三間本を高串本で校訂していくという気が遠くなるような作業があった訳ですが、三間本は三間本だけ、高串本は高串本だけで翻刻し発行すべきだったと批判する学者もいたといいます。そのような意味でも清良記抄は、高串本だけを原稿にした稀有な資料といえるでしょう。
 更に、清良記抄の写真を見ていると、『清良記松浦郁郎校訂』の挿絵に使われている三輪田俊助画と瓜二つの写真があるではありませんか。挿絵は、三輪田画伯から松浦氏に無償で提供されたときいていましたが、清良記抄の写真がモチーフになっており、もし清良記の連載がなかったら、三輪田画伯の挿絵も存在していなかったのではないかと思わされ、清良記抄が本当に稀有な存在である事を感じた次第でs。故に、九月の展示会は、今は亡き恩師の清水岩蔵先生、三輪田俊助画伯、そして、新愛媛新聞社に捧げたいと思います。


□『巻二十九』を紐解く(清良記・p.390~p.402)

 さて、三間史談会主催『清良記』を紐解く会では、毎月三間公民館にて、清良記の勉強会をしています。九月は二十四日に『巻二十九』を紐解きます。そして、ここにきて登場するのが清良の嫡子太郎重清です。「壬申年にて、今年十五歳」とあり、元亀三年(一五七二)生まれであった事、承応三年(一六五四)に亡くなったという清良記の著者水也と、同年代であった事などが分かります。元亀三年の当時、清良二十七歳。真吉新左衛門は十四歳。水也が真吉新左衛門と同一人物という説もありますが、少し無理があるように思います。土居清良の被官であり、三嶋神社の神官であったという水也が誰なのか。土居家被官の内情を記録した『巻二十九』にその正体を知る糸口があるのか。一文一文を噛み締めながら紐解いてみたいと思います。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-09-01 06:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 July 2016

梅雨も明けたのではないかと見間違ってしまうような晴天の七月三日、西予市城川町土居地区で行われた奇祭「どろんこ祭り」に行ってきました。明治十四年頃より行われるようになったという「どろんこ祭り」は、三間を発祥とする遊興だったともいわれています。三間の三嶋神社の松浦宮司の話では、参道の東に神田があったと言うのですが、現在では見る影もありません。西予市城川町土居地区の三嶋神社では、これからもどうか大切に継承して行って欲しいと思いました。

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□『巻二十七』を紐解く p.364〜p.376

平成二十五年五月からスタートした【清良記を紐解く会】も後四巻を残すのみとなって参りました。天正十二年二月から始まる巻二十七では、織田信長の死後、勢を取り戻した長宗我部元親の元に、芝美作や魚成対馬ら辺境の武将が再び寝返って行きます。何はともあれ、元親の四国統一→豊臣秀吉の四国征伐→豊臣権勢の元で下城し帰農して行くまでの、『清良記』大詰めの物語となって行きます。

一章、土居との確執もなくなった西園寺殿は大森城へ清良を訪ね、いつにない覚悟を持って深田上城に陣を配置。土居、山田、久枝は尾坂五本松に出張して、尾坂より沢松口の柏田に柵を巡らせますが、まさしくここが土佐との戦の最前線であったと言えます。三章より始まる合戦の最中には、土居の軍師桜井武蔵を始め、善家六郎兵衛ら重鎮らが討死。かなわじと思いてもなお突いて掛かる土居の侍達。その駆け引きの妙に、勧修寺より来た加勢の侍も驚嘆したといいます。

また、巻二十七で特筆しておきたい事は、四章から六章に登場する松浦宗案に纏わる話です。松浦宗案を、実際には存在しない架空の人物と言い広める人もいるようですが、それは『清良記』全てを作り話と言っているに等しく、どのように読んでもそこまで言える確かな証拠は見られないという事を訴えておきたいと思います。この問題については、松浦郁郎先生に改めて講義をお願いしたいと思っているような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


「以上は、7月に使用した『清良記を紐解く会』のテキストです。勉強会の中では、松浦郁郎先生に松浦宗案に纏わる話をしていただいたり、東京都あきる野市の土居秀夫氏から届いた手紙を紹介しました。また、今回は特別に『清良記』の挿絵として使われた、故三輪田俊助氏の原画を初公開していただく事ができました。この原画はデジタル化し、9月には宇和島市役所のロビー展で展示したいと考えています。」


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撮影者:松本敏幸©︎
撮影地:愛媛県宇和島市三間町宮野下(三間公民館)
撮影日:2016.7.16(土)
*この記事の文章、及び画像は著作権を放棄していません。



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by kiyoyoshinoiori | 2016-07-16 23:02 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より June 2016

晴天に恵まれて、五月十四日は、高知県南国市の【岡豊城址】で行われた「第七回長宗我部フェス」、十五日は、高知市長浜の若宮八幡で行われた「第五回長宗我部まつり」に参加してきました。片道三時間半を二日往復しましたが、それだけの甲斐がある郷土愛に満ちた催しでした。

「長宗我部フェス&まつり」は元親を始めとする長宗我部氏を盛り上げる町興しイベントですが、伊予国宇和郡の攻められた側としては「ぎょっ」と思われる方もいらっしゃる事と思います。しかし、高知県に足を運んでみれば、本当に慕われて誇りに思われており、かつては命を取り合った関係も、これからは共に高め合って行く事が必要ではないかと思わされました。

「あらま欲しきは師友の縁。」人が生きて行く上で大切な事は、いかに尊敬できる師や友と出逢えるかだと言われますが、今回の高知県行きでは【中島重勝氏】と出逢い、本当に良くしていただきました。中島氏は「土佐史談」の会員で、『土佐物語』の現代語訳をされたり、子供達にも分かりやすい絵本や紙芝居で郷土の偉人を紹介する活動をされています。また、スタッフの交流会にも招いて下さり、「高知県でも『清良記』の勉強をしよう」と言って下さって、本当に感動的な出逢いとなりました。


□『巻二十六』を紐解く p.354〜p.363

『清良記』が著された承応二年(一六五三)は、伊達の治世となって三十九年目。藩主が二代宗利となり、和霊神社が正式な神社として登録された頃、三間の三嶋神社神主であった著者【土居水也】が有していた情報と認識は、間違いが含まれるにせよ、当時を知る上で非常に貴重な文書と言わざるを得ません。

巻二十六の一章は、元親と信長の関係について言及しています。ここで注目しておきたいのは、「天正九年辛巳の夏の末より三好松岸と弓矢取りはじめけり」の一文と、天正十一年二月二日の記録に「去々年、元親が侍あまた清良に打たれて以後は、当国への手遣いもならず手懲りしてありしに」とある一文です。これによっても、岡本合戦が天正九年であった事、三滝合戦の後に岡本合戦が起きた事などが分かります。

さて、またユニークなのは三章から始まる「夫婦のたとえ」です。西園寺公広卿の姉にせがまれて、土居蔵人が話をしますが、夫婦は「味噌と塩」のような関係で、塩がなくては味噌の味は調わないが、塩も過ぎれば辛くなる。それはまた、君と臣の関係にも通じていると、面白おかしく物語が進んで行きます。このようなたとえ話は、当時の知恵を知るに止まらず、本当に現代に於いても役に立つ知識であり、まさに『温故知新』と合点してしまったような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸 ©︎




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写真は、五月十五日「第五回長宗我部まつり」にて撮影。




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by kiyoyoshinoiori | 2016-06-17 23:00 | 郷土史

2016.5.13(金)土居清良公の本城である大森城の支城『天神城』を巡ってきました。



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『松峯城』の南麓に位置する元宗地区には、立派な屋敷が多く建ち並んでいます。



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『松峯城』と『天神城』の中間にあるのは黒住教の集会所。江戸時代には元宗村庄屋があった場所だったと言われています。



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元宗バス停から『天神城』を望む。竹林の見える麓へ行ってみましょう。



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そこには、元宗地区の旧村社『天満神社』がお祭されています。石積みが立派なのは、江戸時代に有力な酒屋赤松家があった為だと思われます。



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夏の青葉紅葉は、なんとも清浄な気持ちを与えてくれます。



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拝殿に飾られた絵馬も、大変貴重な物ばかりです。



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神社の狛犬達が、元宗地区を見守ってくれているように思えました。



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天満神社の下の抜け道は、まさに知る人ぞ知る抜け道です。



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元の道に戻った所で、偶然にもJR四国予土線の『海洋堂ホビートレイン02』にお目見え致しました♫\(^o^)/



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元宗地区の東端に建つ『赤松家屋敷』。この後手から『天神城』へ登る事ができます。



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山に分け入る道を真っ直ぐ入っていくと赤松家墓所。左に九十九折に登って行くと、赤松家の氏神を祀る小社があり『天神城』へと続きます。



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赤松家の氏神を祀る『朝日神社/若宮神社』。最近、鉄製の覆殿ができました。尚、今回は赤松家の許可をもらって入山しています。



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ほぼ藪のような山道を分け入って、西へ西へ進んで行くと石積みの並ぶ場所に着きました。そこからは東西に平地が七段続き、一つ下がって、また一段広い平地がありました。



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一つ目の段を、南から北に向かい撮影。



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同じく一つ目の段を、西から東に向かい撮影。東西に長く伸びる『天神城』には、古い天満神社の社があったとも言われていますが、その場所は定かではありません。



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二段目は斜めに伸びており、三段目から四段目に懸けてあるのが水道施設です。宇和島市三間町の水は、隣の西予市野村町から引いていますが、一旦この施設に集められてから町内に送られています。



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五段目の平地から、六段目となる土塁を撮影。



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六段目から、七段目の平地を撮影。崩れたような石積みも見受けられます。



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七段目の平地は楕円形をした広い平地で、西端の少し高まった場所が詰めと思われました。



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詰めの先は、なだらかな下りの尾根となっています。



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尾根の中程に、水準点を発見。



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また上がって広い平地の段がありましたが、上がり端の東端に水準点がありました。西の平地は東の七段目と同じくらい広い平地でしたが、一段だけとなっており、その先は切岸となって行く手を阻んでいるように見えました。



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水準点があるという事は、ここが『天神城』の頂上になるのかと思われます。平成7年発行の『三間町誌』には、標高180メートルとあります。



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その後、赤松家の墓所をお参りし帰路に着きましたが、2時間を超えて余りある登山となりました。帰る途中で、また予土線と遭遇。大好きな、キハ23型の3号軌道車でした♫(^_−)−☆



撮影地:愛媛県宇和島市三間町/元宗地区、天神城



撮影者:松本敏幸©︎






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by kiyoyoshinoiori | 2016-05-13 23:38 | 郷土史

2016.5.12(木)土居清良公の本城である大森城の支城『松峯城』に登ってきました。



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大森城は西の麓、宮野下地区の板山地(いたやまち)から登るのが常ですが、この日は南東に連なる支城の麓に位置する元宗地区から『松峯城』に向かいました。



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元宗地区の西端にある満徳寺池から望む大森城。標高315メートル。満徳寺は大森城のほぼ真南に位置します。



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大森城から南東に張り出した支城『松峯城』は、標高260メートル。『清良記』巻二十三には遠見番を置く砦として描かれています。



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南南西の方角には、『三間富士』と呼び親しまれる泉ヶ森(標高755メートル)、その中腹には土居中地区の新城(標高335メートル)が望めます。



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元宗地区の『法雲山満徳寺』は、真宗大谷派の寺で、東本願寺を本寺としています。この場所は大森城と松峯城の中間にあり、大森城からは南南東、松峯城からは西に位置します。



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境内の入口に馬頭観音を祀る小祠。この右手から『松峯城』へ登って行きます。すぐ上には、江戸時代の古いお墓が数段並んでいます。



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すぐ上の平地までは堀切のような道が続いています。取り敢えず平地に辿り着くまで登って行きます。



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平地に辿り着いたら少し休みましょう。この先は暫く尾根を歩くと、『松峯城』に向けて急峻な上り坂となります。



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平地から少し下るように尾根が続く。



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尾根の中程に水準点。



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「胸突き八丁」と言うのでしょうか。岩肌が見えて来たら頂上が近い事が分かりますが、ここからがまた中々です。



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頂上が見えてきましたが、大きな岩に貼り付くように木が繁っています。



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『松峯城』の頂上は、大きな巨石であった事が分かりました。



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17:30頃『松峯城』にて暫し黄昏る一時。現在は木の茂みがあり周囲をよく見渡せませんが、東南東の正面にある『岡本城』や、その背後に続く『一の森城』や『高森城』に睨みを利かすには、腕付けの砦であったろうと思われました。



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急峻な岩山から下りるのは少し難儀。大杉を目当てに尾根に戻りましょう。



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最初の平地。



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満徳寺池を見下ろしたら一安心。昼下がりに登れば、太陽のある方角に下りて行けば良いので、迷う事はないと思います。



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「おまけ」麓の畑で咲いていた珍しい木の花。




ご視聴ありがとうございました。次回は『天神城』へ登ります〜(o^^o)ノ"



愛媛県宇和島市三間町/元宗地区の松峯城にて撮影。撮影者:松本敏幸©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-05-12 23:35 | 郷土史

「三間史談会」入会によせて

 

                                    土 居 秀 夫

 

このたび三間史談会に入会させて頂きました 土居秀夫 と申します。

よろしくお願い申し上げます。

 生まれは、土居垣内中の谷の入り口です。子供の頃、岡本城の本廓周辺で、畑仕事、山仕事の手伝いをした事もありましたが、多くの時間はテャンバラをしたり岡本城周辺の山を駆け廻っておりました。

本廓東側の直ぐ下にあったから雨に打たれ土の表面に出て来炭化した何度見つけて採取したりしたものでした

また、岡本城の事を単に「(じょう)と呼んましたから下界眺めると、麦の緑菜種の黄色、レンゲの赤三色に彩られた絨毯のような美しい田圃の中をゆったりと流れる三間川この景色を、今も世界一美しいと思い続けております。上京して、半世紀以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。

現在東京都あきる野市第二の故郷して慣れ親しんでおります

あきる野市では、市認定解説員として、学芸員活動に従事しております。

の活動は、多摩西部地域を中心とした歴史文化、自然環境そして伝統産業等の調査研究を手弁当で行う学習ボランティアです。

 そんなある時ふと郷土の歴史も学びたいなあ漠然とうようになり、殆ど予備知識もないままに第1回 清良記シンポジウムに参加しました。

その帰り、歴博を訪れにも土居聡朋学芸員と親しく懇談させて頂く機会を得ました。その松本敏幸氏をご紹介頂きそれから約2年間、「紐解く会」の例会資料その他お送りく等清良公清良記について、少しずつ学んできましたしかし、まだまだ断片的、表面的な理解しかできておりません

会員諸氏のご指導をよろしくお願いいたします。

今回「第2回 清良記シンポジウム」に参加して感じました事は第1回シンポジウムにも増して宇和島市、鬼北町、松野町の学芸員諸氏が、清良記と真摯に向いあって調査・研究されその成果を高いレベルで発表された事を大変嬉しく思いました

また、発表内容が学研的かつ緻密で、特に、清良記の舞台の地域から遠く離れしまっているにとってまで描けなかった鬼北地域そして、山城の戦略的立地条件等活き活きと立体的空間伴って不十分ながらも出来つつあることは、清良記の理解を深めていく上において、このシンポジウムは、大変意義深いものとなりました。

加えて、松本敏幸氏の案内で「西城」、「中城」、「鼡の尾」史蹟を歩いて地形や風景そしてを肌身に感じる事ができことまた森城」、「岡本城の距離実感できたこと更に加えて「板島城址」を山平先生案内で登り

その位置と地形初めて知ることができました私にとって大きな収穫でした。

 ただ一つ残念だった事は、シンポジウムの中で「岡本城」「岡本合戦」には全く触れられなかったことでした。「紐解く会」の当面重要テーマとして今真剣に取り組まれている所謂岡本合戦年数問題」が、シンポジウムの主催参加者にとってノド元に刺さったのような存在になっているとしたら、またこの事『清良記』に対する信憑性を若干でも揺るがす要因の一つなっているとしたら「岡本合戦の年数問題」解決が焦眉の急となって来ているように思いました。

 私は、三間の歴史を学ぶにあたって、最初に「町誌」清良記に目を通すことから始めました(この時点では、ひろい読み程度したが・・・)

その時大変不思議思いましたのは、清良記に「岡本合戦は、天正9年5月23日」と書かれてるのにお膝元である三間町誌本合戦は、天正7年5月23日起こったと何の注記もな書かれている事に何故だろうと長い驚きとともに疑問を持ち続けておりました。

ようやくその背景について、知ることになりましたが、しかし知れば知る程、これで良いのかとう思いが強くなってきました

この問題に今更、私の立場で触れることは甚だ僭越な事とは思いますがこの誤記如何なる背景があったにしろ三間の中世史を語る上での汚点であろうと思っております。

これは過ぎ去った過去の事すが、こ反省の上に立って今「紐解く会」真剣に取り組んでおられる岡本合戦天正九年の正当性を発信し続ける活動が大切だと思っております。

また、三間史談会が、清良記に関心を寄せている三間地区のみならず鬼北地区の多くの方々とも連繋し、一緒に「清良記」の正当性を実証していく母体となれればと思います。

の事が、三間誇りである清良記の名誉回復つなる大きな一歩になる事を切に願っております

 史実は、当然の事ながら一つしかありません。その一つを探求し、実証してゆく活動に皆様と共に微力ながら関わって行ければと願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-23 21:43 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 April 2016

 三月二十日には『第二回清良記シンポジウム』が開催され、十九日『高森城址登山』、二十一日『大森城址登山』も併せて開催されました。連日七十名程の参加者が詰め掛ける賑わいを見せましたが、三間史談会においては、東京都あきる野市から、土居垣内出身の「土居秀夫氏」が参加され、懐かしい再会と新規入会に、大いに盛り上がりました。

 『清良記』は、郷土中世史において、三間の者が思う以上に影響力と存在感があることがあらためて確認できましたが、二年前は第一回を起こした原動力に感激し、今回は学芸員の研究発表の熱心さに感激しました。参加者の手元に配られた資料は最新の郷土史学習の宝であり、次回の展望が更に期待できる物となりました。

 今後、シンポジウムは一年おきの継続と伺っていますが、城址登山は毎年の事業になると伺っています。今回はテーマに上げられていなかった「岡本城址」「岡本合戦」についても早々に実現する筈だと思いますが、だからこそ三間史談会の『清良記』を紐解く活動に期待が大きくなるというものです。岡本合戦がいつの出来事かという年数問題だけでなく、西藤右衛門や久武内蔵助など登場する人物の問題、「裏仏」や「裏松の沖」などの場所を特定する問題等々、会員皆様の研究を大いに期待したいと思います。


□『巻二十四』を紐解く p.335~p.343

 四月は『巻二十四』を紐解くつもりですが、【よど第十七号】に投稿した「岡本合戦の年数問題」を解説しながら、本題を紐解きます。

 『巻二十四』は「堂ヶ内小七の最期」から始まりますが、この「堂ヶ内」こそ岡本合戦の戦場、現在の「土居垣内」に他なりません。元は河野領であった為、当時は「土居」を冠していなかった事が分かります。記事は天正十年正月の内容になっていますが、p.336上段の「去年六月よりは土居の御領となれり」という一文から「岡本合戦=天正九年」とされている事が確認できます。

 また、p.335上段の記述から、岡本合戦時も真吉新左衛門が岡本城代だったという誤解が広がっていますが、『巻二十三』のp.332上段を紐解けば、合戦後の普請(土木工事)が成就した後に、真吉新左衛門が岡本城を預かっている事が分かります。ここで、合戦時の城主は河野通賢、城代は西藤右衛門であった事をしっかり確認していただければと思います。そうする事で、『三間町誌』p.152の「長宗我部元親が久武内蔵助に下した命令の内容」が創作である事、p.208の「岡本城の割譲が土居と河野の不仲の原因という説」が本末転倒である事が分かるようになります。

                  文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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愛媛県宇和島市三間町/土居中地区より大森城址を遠望(2016.3.1撮影)








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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-01 14:28 | 郷土史

2016.3.20(日)鬼北町近永公民館にて、主催、鬼北町・鬼北町教育委員会。共催、松野町教育委員会・宇和島市教育委員会。企画、鬼北の文化財利活用戦略会議による『第2回 清良記シンポジウム』ー鬼北地域の「城の読み方」を考えるーが開催されました。




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朝9時、宇和島市内に宿泊された「土居秀夫氏」を迎えに行き、道すがら戦国時代の古城『板島城』に登って来ました。城主は「板島志麻守」と言われますが、【清良記】では「家藤監物」が領しています。本郭に登ると分かりますが、ここからは鬼北方面の山が良く見えます。




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『上光満』にも登って来ました。近年ここは、元和元年に伊達秀宗公が五十七騎を伴って、板島へ入部したルートだったのではと関心が高まっています。地元の有力者「土居清良」は、伊達が入部するまでの領主「藤堂高虎」とも懇意であり、秀宗の入部を準備した「山家清兵衛」は間違いなく「土居清良」を訪ねたであろうと言われています。




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かつて「土居清良」が領地した『三間』の『土居中地区』から、遥かに『大森城址』を望みます。この土居中地区は、江戸時代に土居清良の末裔が土居中村庄屋となりましたが、土居家初代から数えて三十代目となる当主が、今も健在でおられます。




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『第2回 清良記シンポジウム』の会場、近永公民館へ到着。写真の紳士「土居秀夫氏」は、東京都で市民ボランティアの学芸員をされていますが、この日の為に帰郷して下さいました。




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シンポジウムで意見を求められる「松浦郁郎先生」。松浦郁郎先生は、愛媛県に2名しかいなかった農業普及委員をされていた頃、古文書であった『清良記』の翻刻、校訂を行い、自費で『清良記松浦郁郎校訂』を出版(昭和50年)されました。しかし、公務員であった松浦郁郎先生は版権を出版社に譲渡され、利益を一切受け取られませんでした。松浦郁郎先生は、まさに郷土史研究の恩人だと思います。




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今回は2回目でしたが、鬼北町は国史跡『旧等妙寺跡』、松野町は国史跡『河後森城跡』を持ち、宇和島市は今年度は『伊達秀宗公宇和島入部400年』で忙しく、この翌週からは『癒しの南予博』も始まるという多忙な中でありながら、『清良記』にかける情熱もまた一入である事を感じさせていただけました。




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そして、今回大変嬉しかったのは、凄く良い資料を作っていただけた事です。決して『清良記』に描かれている全てを網羅してある訳ではありませんが、この刺激は更なる研究意欲となって、郷土史研究を盛り上げて行く事は間違いないと思いました。




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シンポジウムの帰り道、『一の森城址』と『岡本城址』の間を走って増田地区に抜け、増田口に掛かる「三間川橋」で綺麗な夕焼けを見ました。「どこに住み、どんなに年を取ろうとも、幼き頃に見た郷土の景色が一番美しい…」と、そう思える光景でした。



以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-20 23:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 March 2016

【西南四国歴史文化研究会】の会誌『よど第17号』に、会員の松本が、「岡本合戦の年数問題」と題した論文を寄稿しました。未発表の稿に限る為、まだ内容を伝える事はできませんが、何分言葉足らずですので、少しだけ補足の意味を込めた説明をしておきたいと思います。


□「岡本合戦の年数問題」とは?

岡本合戦の年数には諸説あり、それを「岡本合戦の年数問題」と言います。先月の会報で紹介した『愛媛県編年史』を見ていただければ、「天正七年」七つ、「天正八年」が一つ、年数なしは八つありますが、「天正九年」の『清良記』も含めて天正七年五月の括りにされています。これが「岡本合戦=天正七年」という説の根拠となっているのですが、果たしてそれで良いのか疑問です。なぜなら『愛媛県編年史』は、岡本合戦が記述された『清良記』巻二十三を、『清良記』巻二十の前に持ってくるという混乱を生じさせてしまっているからです。

そこで再検証をしてみたいと思います。まず『清良記』についてですが、その前後の記述から『清良記』の岡本合戦の年数は、発行された承応二年(一六五三)の当時から天正九年であったと考えられます。次に、発行された順に他の史料を確認したいと思いますが、寛永八年(一六三一)発行『元親記』、萬治二年(一六五九)発行『長元物語』には年数が記述されていませんでした。寛文三年(一六六三)発行の『南海通記』で天正八年、元禄十五年(一七〇二)発行の『土佐軍記』では天正七年となりますが、どちらも先の二史料を底本に編集されており、当時の記録がない為、後世に混乱があった事が分かります。

この「岡本合戦の年数問題」を解決する為に、松本が目を付けたのが「三滝合戦」です。『清良記』では「三滝合戦」は天正八年の事となっており、その後の天正九年に起きるのが岡本合戦という流れです。ところが、土佐の文書では岡本合戦が先で、三滝合戦が後の記述となっている訳なのですが、登場する土佐の軍大将【久武内蔵助】に是非注目をしていただきたいと思います。久武内蔵助は岡本合戦で討死した大将で、その後は弟が同じ名前を受け継ぎ「久武後の内蔵助」と呼ばれています。それが三滝合戦では、どう呼ばれているかが問題です。

『清良記』では兄の内蔵助である為、当然、そう呼ばれてはいません。一方、『長元物語』『南海通記』『土佐軍記』では弟の内蔵助という意味で、「後の内蔵助」と呼ばれています。ところが、それらの底本である『元親記』には「後」という記述がなかったのでした。という事は、『元親記』の記述の並びが時系列ではなかった可能性が出てきました。上中下の三巻から成る『元親記』ですが、上巻の最後に登場するのが「久武兄内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事」です。『元親記』は、これらの話を上巻の最後に持って来る事で印象を強くしたかったのかもしれません。内蔵助が有馬温泉で秀吉に出会ったという話も生前の話である為、ここにも時系列に前後が生じています。更に、中巻の最後も不思議な事に、三間での合戦と秀吉の話で終わるという並びです。三間での合戦は、天正十四年に弟内蔵助が兄の弔い合戦をするという話であり、『清良記』にも同じ話が登場します。という事は、やはり「三滝合戦→岡本合戦→弔い合戦」という流れが自然である気がします。『元親記』より後の文書は、『元親記』の記述が時系列であると誤解し、その結果、岡本合戦を天正七年とする記述が広まったのではないでしょうか。「史料にない事を一人が記せば、数人が孫引きしてこれに習う」は、近現代だけの問題ではないという事を肝に銘じたいと思います。

                  (文責/三間史談会会員 松本敏幸)


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愛媛県宇和島市三間町/土居中の清良神社にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-01 00:11 | 郷土史

実は、高森城に登った翌日、迫目にある【迫目城】に登っておりました。迫目城は、土佐の一條兼定が、三間攻めをした時に、陣を張った城として【清良記】に登場します。*\(^o^)/*


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愛媛県宇和島市三間町の迫目地区にある【迫目城】は、『西城』『中城』『下城』からなる三連城。泉が森の北麓に位置し、さながら屏風のように見えます。


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迫目城の中ほどに見える白壁の長屋は、迫目の旧庄屋岡本家。三間河野家の末裔とも言われ、屋根瓦には、【隅切折敷縮三文字】の家紋も見えます。この裏山の頂が『中の城』であろうと思っていましたが、アンテナの立つ頂が【天守】と呼ばれているとの情報を入手しました。


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岡本家の裏山すぐ隣に立つアンテナ。その麓にお住いの赤松家ご主人から、「アンテナの立つ頂を天守(てんす)と呼んでいる」と教えていただきました。


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そのまた隣、元町長をされていた赤松家の横から真っ直ぐに伸びる山道。ここから右が『下城』になります。『下城』は、【清良記】では『鼡(ねずみ)の尾』と呼ばれています。


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山道は堀切のようにも見えます。尾根の手前ひ『中の城』に向かって登る道があり、その先に五輪塔を納めた祠と金毘羅社がお祭りされていました。


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赤い建物が金毘羅社。赤松元町長の息子さんから教えていただき、お参りしてきました。


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反対側に下ると、三間川が流れており、『蜂の巣橋』が架かっています。『蜂の巣』という地名は【清良記】にも登場しており、『鼡の尾』が『下城』である事を特定する決め手どなりました。


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『蜂の巣』から臨む土居清良の本城【大森城】。護岸が整備されるようになるまでは、大雨が降ると、【大森城】と【迫目城】の間は広い沼のようになったと言われます。


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場所は変わりまして、こちらの堀切は、『西城』と『中の城』の間にある山道です。『西城』は、【清良記】では『馬爪』と呼ばれていますが、丸い形の『西城』を馬の蹄に見立てての事なのだろうと思います。


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『西城』の頂は真ん丸くなっており、豊後石で造られたという小さな祠が祭られています。祠は『十二社さま』とも『きゅうねんさん』とも言われ、【迫目城】に家のある麓組の人達は、4月8日にお祭りをしています。『十二社』は熊野系のお社。『きゅうねんさん』は、貴船社の事で、もとは川の近くの山水が湧く場所にあったそうです。


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元々土居清良の廟は、江戸中期まで迫目地区の妙覚寺にあり、土居の先祖が熊野から来た事もあって、迫目地区には熊野権現や大刀自神社も祭られています。【清良記シンポジウム】で、3月19日の「高森城登山」の後には、有志を「岡本城」ど「迫目城」にも案内しますので、奮ってご参加ください。


追伸。お話をお伺いした、岡本様、赤松様、赤松様、二宮様、その節は誠にありがとうございました。


以上、松本敏幸©︎


愛媛県宇和島市三間町/迫目地区の迫目城址にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-28 23:02 | 古城

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん