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□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地検証『岡本城〜橘合戦』


    時下益々御清祥の事と存じます。本日は待ちに待った『岡本城〜橘合戦』の現地検証です。清良記によれば、それは天正九年五月二十三日の宵の事。土佐に内通した中野の侍の手引きによって、岡本城本丸へ百騎の土佐勢が侵入。明けて二十四日、橘の森に仕掛けた六百挺の鉄砲が、総勢三千八百騎と雑兵一万三千の土佐本隊を迎え撃ちます。その舞台を『現地に足を運んで検証しょう』というのが今日の趣旨となっています。暦の違いはありますが、四百三十二年昔の今日の出来事に想いを馳せて、清良記の巻の二十三を紐解いて行きましょう。(松本)




        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇    スケジュール    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


        10:00〜開会の挨拶(高齢者コミュニティーセンターにて)

                ・三間史談会会長    羽藤明敏


        10:05〜スケジュール説明&資料学習


        11:00〜現地検証

                ①橘の森→②岡本城→③大内城→④奥屋敷→⑤新城


        13:00〜昼食(土居垣内集会所にて)

                ・各人自己紹介をお願いします。


        14:00〜基調講演

                『清良記校訂秘話』講師    松浦郁郎


        15:00〜閉会の挨拶

                ・三間史談会副会長    佐竹利夫


        17:00〜懇親会

                ・焼き肉『闘牛』にて行います。参加希望の方は事務局(伊井)へ申し出て下さい。


資料編

・資料①『地誌』

    1.古藤田…三間町誌を見ると、『吉田古記』には八幡神社と岡本城跡が古藤田村分で記録されている事が分かる。ここに、土居垣内が古藤田から分かれて出来た村でなないかという推測が立つ。

    2.土居垣内…『清良記』の巻二十四の一節に『堂ヶ内村』の名前が見え、『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とある。巻二十三の五節を見れば、『堂ヶ内村』は土居清良公の戦功によって誕生した村である事が分かる。

『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大巧を感じ褒美せられ、西園寺家重代の太刀、同刀、馬二疋、そのうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ加増し賜りけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることどもなり』


・資料②『岡本城』

    標高230m。比高差凡そ100m。元は中野殿河野通正の所領。城代は西藤右衛門であったが、土佐方に内通し、天正九年五月二十三日の宵、土佐勢を本丸に引き入れる。岡本城を取り戻した戦功により、天正九年六月からは土居清良公が所領。城代は真吉新左衛門となる。


・資料③『岡本合戦』

    天正九年五月二十三日の宵、大森城で二十三夜の月待ち講をしていた土居清良公は、土佐方に内通していた中野殿河野豊前守通正が、岡本城の本丸に土佐勢百騎を引き入れた事に気付いて東西より攻め登る。塀一重を隔て突き合い打ち合いし、三十八人討ち取り、旗差し物は残らず奪い取り、土佐勢を本丸に生け捕りとする。ちなみに岡本合戦では火攻めを行っていない。


・資料④『橘合戦』

    土居清良公は様々な知恵を働かせ、多勢に無勢の戦を有利に変える。土佐軍に油断あり、土佐方から奪った旗差し物を利用して騙し討ちする作戦。橘の岡の額には段々に四百五十挺の鉄砲を三重に引き隠し、また堂の後ろより西の井口には百五十挺の鉄砲を隠して、翌二十四日の早朝から押し寄せる土佐軍本隊を迎撃。大将久武内蔵助を始め、大将首を悉く討ち取り、清良記に『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるは、この時の軍なり』と言われる戦果を上げる。


・資料⑤『框越合戦』

    二十四日の戦は土佐軍だけではなく、土佐方に寝返っていた芝の軍勢が框(加町)坂峠を越えて土佐軍に加勢。ここで清良公の伯父(祖父清宗の弟)で石城の城代であった土居似水が討死。清良記の巻二十二の十節によれば、三月の初めには『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあり。北山にも新手の敵が控えていたが、有馬、中野、深田、家藤、奈良が駆け付ける。


現地編

・①『橘の森』

    土居垣内地区の八幡神社が鎮座する森を『橘の森』という。東の尾根筋が表参道となり石の鳥居も建てられていたが、現在は藪となって使われておらず、鳥居も壊れ倒されたままとなっている。しかし、まさにここが清良記にある『橘の岡の額』と考えられる。清良公は、ここに四百五十挺の鉄砲を段々に後ろ高く三重に引き隠し、橘の岸の下にささめき入った土佐勢を千余騎討ち取っている。また参道入口であったであろう麓は、個人宅の敷地となっているが、主久武蔵之介を討ち取られて血気に燃える小姓今藤又八郎と、土居の武者法師木ノ本円長坊との一騎打ちが繰り広げられたのは、この場所であったと考えられる。


・②『井口』

    橘の森と岡本城址の谷の間に『中の谷川』が流れている。この入口が岡本城址の登山口であり、橘八幡神社へは裏参道となっている。またすぐ上の森には土居垣内地区の墓所がある。清良公は橘の森の堂の後ろから西の『井口』の藪にも百五十挺の鉄砲を隠していたが、土佐勢の本隊が到着する前に三騎の侍と五十の兵が、岡本城麓の井口に近付き、先に岡本城に侵入している土佐勢へ口上を述べに来る。清良公は、井口に隠した鉄砲を発しないように指示し、三騎の部下を古藤田から来たように見せかけて六人の土佐勢を討ち取る。さらに土佐勢の振りをさせた部下三騎に、その三騎を追わせて土佐勢を騙し込む念の入れよう。


・③『岡本城本丸』

    岡本城の本丸へ土佐勢が侵入したのは、清良記によれば、天正九年五月二十三日の宵である。この宵、清良公は大森城にある権現堂で『二十三夜講』を行っている。二十三夜の月は下弦の月で、日没から深夜零時に月が上るまで闇夜となる。もし戦闘行為があって侵入したのであれば、即座に発見された筈であろうが、此度は中野通正が内通しての運びであったので、土佐勢の侵入は易かったと思われる。土佐勢の侵入に気付いた清良公は、東西から攻め上るが、土佐勢は鉄砲を打ち尽くし、必死に旗指し物まで使って応戦したので、それらを全て奪い取る。また、火を掛けて焼き殺せと言う者もいたが清良公がやめさせ、生け捕りにして岡本城の合戦が終わる。清良記によれば、土佐の侵入勢は百騎。塀一重を隔てて打ち合い突き合いとあり、本丸にある程度の広さを伺う事ができる。


・④『岡本城二、三の丸』

    本丸には火が灯っていたが、二、三の丸は静まり返っていたという。中野の侍で岡本城の城代であった西藤右衛門は、三の丸に出て警固していたが、土居の侍川添喜左衛門に詰め寄られて正気を取り戻す。また、二の丸か三の丸には、西藤右衛門と妻子が住む居館があった事が伺える。この事から、二、三の丸は大森城側からある程度伺える位置にあると思えるが、岡本城本丸と隣接した曲輪であったのか、それとも独立した曲輪であったのかは判断が着かない。それでも岡本城址のホノキ表には、本丸を示す『城』の他に『奥屋敷』『大内城』『新城』等のホノキがあり興味が唆られる。大内城を二の丸であると見れば、奥屋敷が三の丸か。それとも大内城を本丸の一部と見て、奥屋敷を二の丸と考えれば、新城が三の丸かもしれない。


・⑤『侵入ルート』

    土佐の先勢の侵入ルート、また本隊の進軍ルートは定かではないが、狼煙を上げた地点と合戦に内通していた伊代勢から、粗方の推測を立てる事が出来る。まず狼煙を上げた地点は、岡本、奥野々、原之森、奥之川、伽之森の五地点。岡本は土佐の侵入勢。奥野々は興野々で芝次男左京進。原之森は河原渕で当時は既に芝四男源三郎が領主となっている。奥之川は土佐との国境。伽之森は戸祇御前山で芝嫡男一覚政景の本拠地である。また、内通者中野殿河野通正は芝三男四郎右衛門を婿としており、土佐の進軍は芝源三郎と芝左京進を案内者として、芝領から中野領を進んだと見て間違いない。

    故に土佐本隊は薄木表に現れて、沢松→兼近→大内→岡本へ進んだと見られる。本隊前方の大将は久武内蔵助親信、後方の大将佐竹太郎兵衛親則は大内に控える。また、絡め手からは、芝美作守正輔、芝一覚政景、芝四郎右衛門が攻める。そして加勢に至らなかったが、北山から魚成と北の川が戦の動向を伺う。土居の鉄砲隊は橘の森で千余騎の土佐勢を討ち取ったというが、総数では本丸の生け捕り六十八を合わせ二千六百八十人を討ち取っている。その多くは、大内の『裏松の沖』とも『裏仏』とも言う場所での斬り合いであったというが、川端の田の中であったという以外は場所が定かではない。




□平成26年5月24日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』世話役:松本敏幸(090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-15 17:00 | 郷土史

□三間史談会主催『清良記を紐解く会現地検証・岡本城〜橘合戦』のご案内


    各位

    春暖の候、益々ご清祥の事と存じます。さて、三間史談会では、昨年より『清良記』を紐解く勉強会を開催して参りました。今年は清良記の中で最も大きな勝利として有名な『岡本合戦、橘合戦』から432年という年になります。つきましては、今年五月二十四日(土)に、岡本城址を巡る現地検証を行いたいと思います。どうかご理解いただけますと共に、関心ある方の多数の参加をお願い致します。

    清良記によれば、岡本合戦は天正九年五月二十三日の宵、橘合戦は翌二十四日に行われた合戦で、一日にして終わる合戦として描かれています。これまで清良記の内容に対する紹介が正しく行われて来なかった為、どんなにか凄い大合戦だったに違いないというイメージばかりが先に膨らみ、誤解による宣伝がされていました。この現地検証では、清良記の内容を確認し、岡本合戦と橘合戦の内容を正しく広める機会にしたいと考えています。

    参加費は無料ですが、資料と弁当を準備する関係があります。参加希望の方は、三間史談会会員、
清良記を紐解く会担当の松本敏幸まで電話を入れていただけますようお願い致します。連絡先は携帯で090-1320-1508】です。どうぞよろしくお願い致します。



    以下、日程


    題目『清良記を紐解く会現地検証・岡本城〜橘合戦』


    ・平成26年5月24日(土)10:00〜15:00


    ・09:30〜 二名小学校隣のコミュニティーセンターに集合


    ・10:00〜11:00 清良記より岡本合戦と橘合戦の講義


    ・11:00〜13:00 岡本城址と橘の森の現地検証


    ・13:00〜14:00 昼食 土居垣内地区集会所


    ・14:00〜15:00 松浦郁郎氏による記念公演、交流会


    ・15:00〜 解散、希望者で懇親会を行います。(17:00〜焼き肉闘牛)



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-14 18:00 | 郷土史
【前回が『巻二十三』の一節『岡本合戦の事』で大変盛り上がり、この回では本編となる二節『橘合戦の事』を紐解きました。これらは全て五月二十四日に実施する『岡本合戦現地研修』を成功させたい為です。私の清良記にかける思いは様々ですが、岡本合戦に関する様々な誤解をなくしたいという事が最大の願いとなっています。これは、ある意味、清良記の名誉を復帰させる為の取り組みだと言えます。】

□『清良記を紐解く会』第十一回

    前回は『巻二十三』を紐解きましたが、頁数としては二頁。その他、関連のある巻二十二や巻二十四も読み、大いに盛り上がりました。このように『紐解く会』は、どんどん先に進むだけではなく、時には大事な話題について深く考察してみる事も楽しみの一つではないかと思います。これからは参加者の方々がそれぞれに理解を深め、様々な疑問や見解の発表を交換するようになれば、会は更に盛り上がる物と期待を大きくする所です。

    さて、いよいよ来月は岡本合戦の現地検証が控えておりますので、今回は『巻二十三』を全て紐解いておきたいと思います。この現地検証は『清良記の現地の検証』が目的ですので、清良記をよく読み込んでおく事が必要です。岡本合戦の資料の違いで見解が分かれるのは当然ある事ですが、『三間の郷土史愛好者が清良記に何が書いてあるのか知らない』『現地に行った事がない』では、清良記を正しく紹介する事が出来ません。これから少しづつ課題をクリアして行きましょう。


□『巻二十三』を紐解く・其の二

    さて清良公が立てた作戦はこうです。それは、土居の本隊を古藤田に置き、土佐方の旗を持たせた偽土佐勢を橘の森に潜ませて、そこに土佐本隊を誘き寄せ、待ち伏せた鉄砲隊で討ち取ろうという物。ちなみに土佐方の旗を使っての騙し討ちは、この時が初めてではなく、巻十九の十節にも登場します。所謂、土居の軍法には『夜討ち』『騙し討ち』等のゲリラ戦法が多く、大敵を相手に少数で守るには有効な手段だったと言えます。

    ところで気になるのは、どこに鉄砲隊を布陣したかではないでしょうか。清良記には『新左衛門、右京進は南の尾崎八幡の前に引き分けて、足軽その他四百五十挺の鉄砲は、橘の額に柴、笹などをかぢし段々に後高く三重に引き隠し、残り百五十挺の筒をば堂の後ろより西の井口という所までの藪の中に隠し、彼此六百挺の筒は早込めの仕掛けにて、込め変え込め変え、三度放ちて一回り、三度放ちて一回りと絶え間なく打ち続くべし』とあります。つまり土居垣内の八幡神社のある山が橘の森で、橘の岡の額は白瀧家のある東側、堂の後ろより西の井口は土居家のある西側と見る事ができます。

    そのような守備万全の中、三騎の早馬と五十の兵が本隊を抜けて、岡本城の麓、井口まで近付きます。これは岡本城本丸に侵入していた先勢と連絡を取る為でしたが、ここで鉄砲を発砲しては作戦が暴露てしまいます。清良公は家来の侍三人に古藤田から来たように登場させて、三騎の大将を討ち取らせます。雑兵は慌てて本隊へと逃げ帰りますが、この間、橘の森に隠れている鉄砲隊は一度も鉄砲を放つ事はありませんでした。清良記には、この命令の統制こそが土居方へ勝利を引き寄せた鍵であり、後々まで讃えられたと書かれています。

    その上、清良公の作戦は、本当にこのような事があったのかと驚くばかりですが、土佐本隊を目の前にして、古藤田から善家と桜井が偽土佐勢に打ち掛かり、土佐勢を演じた清良公は橘の森に駆け上がって土佐方の旗を立てます。これを味方と心得た土佐本隊は、橘の岸の下へ近付き入りて、ここで初めて鉄砲隊が火を放つのでした。清良記には、『土佐方の大将久武内蔵助を始め国吉肥前守、佐川、谷脇、依岡、和食などいう者を先として暫時が間に雑兵合わせて千余人目の前に打ち伏せ』と、土佐本隊が総崩れになる様子が描かれています。

    その直後、真っ直ぐに走り寄る一人の若武者が登場。久武内蔵助の小姓であった今藤又八郎です。主を討たれた又八郎は既に命を捨てる覚悟ができており、誰も手に負えません。そこに武者法師木ノ本円長坊が太刀打ちに駆け付けますが、牛若丸と熊坂長伴になぞらえて、戦いの様子は非常に読み応えがあります。そして後陣の土佐勢は、『大内裏松の沖』という所に引き退きます。この後、主戦場は『大内』に移つり、また框越えから加勢して来た芝の軍勢との間で『框越え合戦』が起きて行くのでした。



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-13 19:00 | 郷土史

土居清良公の命日参り

【『第一回清良記シンポジウム』の翌日、清良廟のある土居中の牛河山龍泉寺の前田和尚にお願いし、清良公の命日参りをさせていただきました。前年の二十五年三月二十三日にはテレビ愛媛の番組『ふるさと絶賛バラエティーいーよ!』に清良公の大森城と清良記が紹介され、松浦郁郎先生がテレビ出演されました。そして、奇しくも一年後の同日に『清良記シンポジウム』が行われた事。これらを清良廟の前に報告させていただきました。】

    □土居清良公の命日参り

    土居式部大輔清良…天文15丙午(1546)年1月30日、土居伊豆守清宗の三男土居清晴の三男として生まれる。幼名三郎虎松。永禄3庚申(1560)年10月16日、土佐国幡多郡一条尊家の扶持を受ける。永禄5壬戌(1562)年7月12日、三間領主として大森城へ帰城。天正15丁亥(1587)年10月下旬、戸田民部少輔政信の命令により下城。『背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん』と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔もかかる事のありけん、その名を隠れ宿という所に、細々と浅ましく庵引き結ばせて入られける。また代にありし時の下屋敷に住む。寛永6己巳(1629)年3月24日の暮れ、清良84歳。臨終正念にして往生の素懐をぞ遂げられる。本年没後386年。2028年が400回忌となる。


    □『巻二十三』を紐解く

    一、岡本合戦之事
    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて』…清良記によれば、岡本合戦は天正九年の出来事。巻二十四の天正十年の記事には堂ケ内村は『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とあり、巻二十六の天正十一年の記事には『去々年、元親が侍あまた清良に打たれて』とある。土佐方の軍記には正確な年月日を記す物はないと云われる。また清良記によれば、清良公等は毎月二十三日の暮れより大森城の本丸にある権現堂の六間の座敷に集まり、月待ち、日待ちの御講をしていた事が伺える。二十三夜の月は下弦の月で、凡そ深夜零時に昇って来、それまでは闇夜となる。注:六間は約10メートル。大森城本丸は東西に約70メートル、南北に約15メートル。


    二、橘合戦之事
    『敵は人数立つともなく、武者押しの体も見えず、味方に手引きするものあれば、先勢には城を取らせて合図の火を立て、その上、度々の軍に西園寺殿後詰めはなくて、公広の領内三分の一は土佐へ取りければ、今日の大将は我が領内なりと思い心緩くぞあらん』…清良記によれば、土佐勢は川霧に紛れて薄木表の東西二十余町、南北へ五六町の間隙間もなく進んで来るが、我が物顔で戦にもならないと油断した様子が伺える。土佐方を手引きしたのは中野豊前守通正。また巻二十二によれば、芝一族は天正九年三月より既に土佐方に寝返っており『元親より加番の武士五百余騎差し籠りて置きければ、河原渕、定延、西之川、魚成、北之川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とある。合図の狼煙は、岡本、奧野々(興野々か)、原之森(河原渕か)、奥之川、伽之森(戸祇御前山か)。


    三、框越合戦之事。
    『似水、息の下より。今はこうと覚ゆるなり、さて軍は如何し給うやと、問われければ、清良、お心安かれ、敵四千余騎にお中野、有馬よりは一騎も助け来らず、清良一手にて敵の大将三人を始め、彼此二千六百余人討切取り、その他追い散らし、味方も討たれず候』…框越えを守っていた土居似水が矢傷を負い、大内村で陣頭指揮を取る清良公の元へ運ばれる。戦局を案ずる似水に戦功を告げると、似水は安心し、笑いながら眠りに着く。似水は祖父清宗の末の弟で、清良公には大叔父の一人。


    橘合戦之事によれば、兜首八百七十五、雑兵千七百三十七、生け捕り六十八、都合二千六百八十を持って勝鬨を挙げる。大高島新蔵人の口上によれば、土佐勢は三千八百余騎、雑兵一万三千人。よって兜首の23%、雑兵の13.36%、全体では15.54%を失った計算となる。土居方は一人に敵十四人当ての軍とあるので、土居の軍勢を単純計算すると二百七十一騎の雑兵九百二十九人となる。これが前代未聞の手柄といわれ、都まで隠れなく聴こえた橘合戦の戦果だったといわれている。




    □平成26年3月24日(月)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-12 20:00 | 郷土史
【平成二十六年三月は、本来であれば『巻十』を紐解く所ですが、五月に岡本城址の現地研修を行う予定であった事から、岡本合戦について書かれた『巻二十三』を勉強する事にしました。また、三月二十三日は、鬼北町の近永公民館にて宇和島市・鬼北町・松野町共同主催の『第一回清良記シンポジウム』が開催されました。】

□『祝!清良記シンポジウム』

    この度は『清良記シンポジウム』の実現おめでとうございます。そして本当にありがとうございます。私達は三間史談会と言います。三間は『清良記』の主人公、土居清良公が誕生した地であり、戦国時代の領主、清良公を親しく誇らしく思っています。本来であれば、三間が発起し、主催となってシンポジウムをすべきであったと思うのですが、古代や中世の調査研究の著しい鬼北町に『清良記』を取り上げていただき本当に感謝の思いが致します。今後、このシンポジウムは多岐に渡って展開して行くと伺っており、益々の発展を心から期待する所です。

    また三間史談会では、毎月第四土曜日の夜七時〜九時に三間公民館で『清良記を紐解く会』を開催しています。そして『清良記』を声に出して読み、一つ一つの物語りを解説して、『清良記』への理解を深めています。会員でない方も参加していただけますので、関心ある方は是非三間公民館までお越し下さい。


□『清良記を紐解く会』お知らせ

    ① 三月二十四日(月)午前十時〜十一時『土居清良公墓参』土居中龍泉寺
    ② 四月二十六日(土)午後七時〜九時『第11回清良記を紐解く会』三間公民館
    ③ 五月二十四日(土)午前十時〜午後四時『岡本城〜橘合戦現地研修』

    (注意:予定が変更される場合があります。参加希望者は必ず会報で確認をお願いします。)


□『巻二十三』を紐解く

    『巻二十三』は『岡本合戦之事』から始まります。時は天正九年五月二十三日の夜、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛宕講の勤めあり。とあるように、一族の供養に勤めて信心深かった清良公は、毎月二十三日の夜から翌二十四日に掛けて、月待ちと日待ちの御講をしていた事が分かります。月待ちは二十三夜の下弦の月を御仏の化身として迎える御講の事で、下弦の月はおよそ深夜零時ほどに昇って来るので、日没から月が昇るまでは闇夜となります。その闇に乗じて岡本城本丸に侵入したのが土佐の長宗我部元親の侍百騎。しかし、それは松宗の遠見番の見逃す所ではありませんでした。

    岡本城本丸に土佐勢が侵入出来たのは、中野殿の侍が土佐に寝返って手引きをした為です。故に、岡本城本丸は争って奪われたのではなく、闇に紛れて招き入れたと理解すべきでしょう。そのような岡本城の異変に一早く気付いた清良公は、東西より攻め登り、土佐勢の旗や差し物を全て奪い取ると後は取り合わず、そのまま本丸に押し込めて置くのでした。これにて『岡本合戦之事』は終わりです。つまり、都まで隠れなく聞こえた軍というのは岡本合戦ではなく、この後、二百騎の土居の侍が橘の森で三千騎の土佐勢を謀りを持って打ち破るという橘合戦の事なのです。

    第二節は『橘合戦之事』となりますが、ここが『巻二十三』のメインとなります。この時、敵は土佐勢だけではありません。既に三国を手中に収めている元親の勢いは物凄く、阿波、讃岐の侍まで加勢していたのは勿論ですが、味方である筈の西園寺の武将達までが土佐方に寝返っており、『巻二十二』の第十節を見れば、天正九年三月初めに『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあります。故に清良公は中野殿が土佐に内通している事を知りながら、気取られぬよう知らぬ振りをして周りの武将の加勢も西園寺卿の後詰も当てにせず、一将と二百騎のみで三千騎を相手にする謀りを講じるのでした。



□平成26年3月22日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-11 21:00 | 郷土史
【平成二十六年二月の清良記を紐解く会は、参加者が大変に少なく、三間史談会事務局の伊井さんと二人だけの勉強会となったのですが、日本に鉄砲が伝来した時の話をしながら、かつてないくらいに盛り上がった回であったように思います。まあ、毎回盛り上がっていますからあれなんですが、人数が少ない時には少ないなりの盛り上がりがあり面白く思いました。】

□清良記を紐解く会(第九回)

    今回はいよいよ『鉄砲』が話題となります。鉄砲は度々日本に持ち込まれていたようですが、九州の種子島に伝来したのが天文12年8月。種子島の島主時尭が、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人宣教師2人から、二挺の火縄銃を二千両支払いて譲り受けます。その内の一挺を紀州根来寺の津田監物が入手。僧兵根来衆の強力な武器となって行きます。その3年後、伊予国宇和郡三間郷に土居清良公が誕生。天文15年1月30日の事でした。

    その12年後の永禄元年、九州豊後の大友が宇和郡に大寄せして来た時の事。度重なる戦の末、永禄3年9月に宇和の領主西園寺真光卿が降伏しますが、吉田の石城を守備していた土居一族は降伏を拒否。孤軍奮闘し自刃の道を選びます。清良記によれば、この時石城に所有していた鉄砲は僅か100挺。とても大友勢の物量には叶わなかったのでした。

    その後、一族から御家の再生を託され土佐に落ちた清良公は、一条兼定卿の扶持を受けて土佐国幡多郡高島を領地し、幾つもの功績を上げ、永禄5年7月に遂に三間の大森城への帰城を果たします。その清良公が強い国造りの為に力を入れたのが『農業』、そしてもう一つが『鉄砲』でした。永禄8年に江州甲賀の薬師堂から鉄砲鍛冶を招くと、周りの武将の目に触れないように研究と改良を重ねます。有名な天正9年の橘合戦では、実に600挺の鉄砲を数える事ができます。


□『巻九』を紐解く

    『巻九』は忍び頭、丹波と丹後の生い立ちから始まります。祖父は荒尾忠兵衛といい、清宗秘蔵の侍で、父大八は石城で名誉の死を共にしています。その後、丹波と丹後は三間の落人に商いの指南をしていましたが、清良公が帰城してからは忍びとしての才覚を現し、江州甲賀の鉄砲鍛冶を三間に招きます。三節は土居の侍衆が鉄砲を研究し改良して行く様子が大変興味深い読み物となっていますが、この事によって清良公は最強の鉄砲隊を備える事ができたと考えられます。

    一方その頃一条尊家(兼定)との戦は、一条と豊後勢の連携により、なかなかの苦戦を強いられていたようです。というのも河後森城主法忠(教忠)が一条尊家の弟、東小路法行の子であった為、河後森城は土佐勢を招き入れては戦を逃れ、敵か味方か分からなくなる始末。この事態に、宇和郡の領主達は西園寺卿に河後森の城主差替えを願い出ますが、西園寺卿は事を荒立てようとせず、次第に領主達が不満を募らせて行く様子が伺えます。

    また近隣の村との諍いが記事となっています。八節では、土居の中村と吉波村との間で牛を巡る諍い。九節では、周知郷との間で山を巡る諍い。またその諍いは遺恨となって乱暴を働く者が表れ、赤浜右近、白木左近の家老衆を相手取り、西園寺卿の前で申し開きをする事となります。ここで分かる事は、土居の侍は、どんな事があっても仲間を守る、どんな事があっても絶対負けないという気概がある事です。その気概と喧嘩の仕方は倣うべき事かもしれません。


□お知らせ

    さて、次回は『巻十』となるべき所ですが、特別に『巻二十三』を行いたいと思います。ここには清良記の中でも特に有名な岡本合戦と橘合戦が紹介されています。しかし、実際には清良記をよく読まないまま間違ったイメージが広まっており、清良記が紹介している岡本合戦と橘合戦がどういう合戦であったかについて、正しい知識を広めたいからです。そして今年は天正9年から432年になりますので、合戦場一帯の現地検証を『清良記を紐解く会』で行いたいと考えています。また、3月23日(日)には鬼北町主催の『清良記シンポジウム』が開催されますので、是非皆さんのご参加をよろしくお願い致します。




□平成26年2月26日(水)『清良記を紐解く会』世話人:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-10 22:00 | 郷土史
【第8回は昨年の正月の記事ですが、今年は二回目の正月も迎える事ができ、清良記の勉強会が続けられている事に本当に感謝の思いがします。そして三年目となる今年は、長宗我部氏所縁の岡豊、長浜、浦戸を一泊二日で訪れる予定です。多くの方が参加して下さいますように宜しくお願い申し上げます。ちなみにこの回から三間史談会の回数に合わせてテキストを作っています。幡多郡青年読本は一条兼定公の放逸と土居宗三の最期についての資料ですが、清良記ではこのような不名誉な記事については扱っておらず、非常に一条家贔屓である事が伺えます。】


□清良記を紐解く会・第八回

    新年明けましておめでとうございます。昨年六月から始まった清良記を紐解く会も今回で第八回を迎えました。当会は、後継者の育成、新会員の獲得、二十周年記念事業に向けて若手に活躍の場を与えていただけるように願って実現した夜の勉強会です。三月にテレビ愛媛で大森城址と三間町の文化財『清良記』が紹介され、この時こそ清良記を紐解く勉強会をするべきと一念発起したのが始まりとなりました。これまで史実か否かという見方から研究される事が多かった清良記ですが、当会では先ず清良記に何が書いてあるか正しく理解する所からアプローチを始めています。故に清良記自体を読む事が何より大切です。毎日少しづつ何回も繰り返して清良記を読まれる事をお勧めします。そうすれば土居清良公や著者水也の心が分かって来る事でしょう。


□『巻八』を紐解く

    今回は巻八を紐解きます。巻八も様々な話題に富んでいますが、先ず話題となるのが中村に残して来た人質の奪還です。それは一条との決別を意味するのですが、なぜ清良公がそれを決断したかという理由が初めに述べてあります。それは土佐を席巻し勢力を拡大していた長宗我部元親の存在でした。もし一条と決別しなければ行く末は元親の旗下となり、大友の支配下にある宇和の旧領主と戦しなくてはならなくなる可能性があったのです。

    さて清良公は人質を奪還する為に忍者の丹波を呼んで策を巡らしますが、それが史実であるかという事より、当時の忍者が人質を奪還しようとする時どのように知恵を巡らせるのか伺い知れる貴重な話となっています。そして永禄七年七月七日の夜、お松とお初を無事に三間に連れ戻す事に成功したのでした。また清良記の記事によると、この事は一条にとっては大した問題とはならなかった事のようです。

    一条との戦の始まりは、十月十二日から十四日に掛けて土佐の番手衆との間で争いが起こり、番手を全て土佐に帰した事から始まったとしています。またこの動きを察知した法花津法宣が、島津との戦や毛利との不和で隙があった豊後から宇和の人質を取り戻す事に成功し、永禄七年十一月、宇和郡は再び西園寺家に立ち返る事になります。

    そして後半の話題となるのが清良公と西園寺家との和睦です。清良公にとって西園寺家は祖父や父を見捨てた怨みがあります。しかし、祖父や父は西園寺家への忠誠の為に死を選んだのであって、自分が西園寺家に背くような事があっては祖父や父の死が報われなくなってしまいます。そこで清良公と西園寺家の和睦の為に活躍したのが山田治元でした。山田治元は西園寺家の旗本でしたが清宗の娘を嫁にもらっており、清良公にとっては叔父の一人でした。清良公は、山田治元、有馬能信、妙覚寺の法田和尚、元成寺の一花和尚の四人に和睦を勧められ、十二月に西園寺家の娘との祝儀が調うのでした。


□幡多郡青年讀本 續(10)十七、土居宗三

    此頃、兼定卿漸く政に倦み、放逸度なし。甞て郡内平田村に遊獵し、百姓源右衛門の女お雪を見て之を喜び、妾となして平田に置く、時人嘲りて平田の入聟といふ。宗三之を諌めて日く、「此頃世上の取沙汰には君を平田入聟と呼べり。是れ實に家門の御耻辱なり。幸に宗三が諌を納れ給ひ、御過を改めらるれば御家門長久なるべし。是をしも猶お聽入なく、奇怪に思召すならば、先づ宗三が皺首討たれ候ひて、其の上御勝手に働かせ給ふべし。」と云ひければ、兼定卿大に怒り、「諌言は君臣父子の常なりとはいへ、皺首討てとは過言なり。」と刀を按じて起つ。宗三少しも騒がす、近士に向ひて日く「諸公能く聞き置かれよ。此の宗三罪せられなば、遠くは三年近くは今年の中、御運必ず極まるべし。其時後悔ありて必ず宗三を思ひ出さるべし。」と、兼定卿遂に宗三の首を落す。




平成二十六年一月二十六日(日)清良記を紐解く会・世話役  松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-09 15:00 | 郷土史
【この翌十二月は松浦郁郎先生には『巻七』の特別講義を依頼。その時、四十年前に作ったという貴重な清良記の校訂過程の資料を拝見。先生のご苦労がどれ程大変なものであったかを思い知った参加者でした。その後しばらく懇親の時間を楽しみました。】


□『中村行き』その後②


    先月は高知県四万十市へ『清良記』に著された土居清良公の足跡を訪ねる現地研修を行う事が出来、三間史談会の清良記研究にとって大きなステップとなりました。また『敷地軍記』との出会いで幡多郡で領地した『高島』が現在の竹島と分かり、頼りにした義理の叔父土居近江守家忠(土居宗珊)が、安並、為松、羽生と共に四天王と呼ばれ、土佐一條家初代からの筆頭家老であった事も分かりました。
    土居宗珊が執政官であった一條康政と同一人物では?という疑問については可能性が低くなりましたが、清良記が述べる『土居近江守家忠=房家の弟』という件は今後も研究して参りたいと思います。



□『巻六』を紐解く


    前回は巻五を紐解きました。不破八幡の宵宮祭に石礫が投げ込まれた事件であらぬ嫌疑を掛けられた清良公でしたが、近江守が盾となり、姉お初(北の方)が知恵を付け真犯人を挙げる事に成功。一條公は清良公に謝罪され、清良公の幡多郡での立場が高められる事になりました。
    さて、今回巻六では土居清宗の弟民部少輔清治の三男『善家六郎兵衛』が登場します。善家六郎兵衛は一之森城主深田殿竹林院真清の弟である善家備後の家継となっていましたが、周囲との生き方の違いから幡多郡に落ち延びた清良公の元へ駆け付けます。
    また巻六で注目すべきは、清良公の『帰城』がなされた事です。一條家配下における数々の謀反を鎮めて来た清良公でしたが、今回は和食九郎兵衛を討ち取った事への褒美もあり、百五十貫で本国土居に帰るか二百五十貫で幡多郡に留まるかの選択を任せられます。しかし百五十貫の領地は、宮下、石原、末森の三村で、故郷に錦を飾る事にはならず侍衆の生活もどうなるかと心配する清良公でしたが、『百五十貫が二貫であっても帰りましょう』と侍衆は心を一つにするのでした。清良公一行は永禄五年七月十日に中村を発ち、十日は若藤、十一日は川崎に泊まり、十二日の朝に須山を越えて三間の『大森城』に帰城されました。
    また帰城後は『土居似水』も清良公の元へと馳せ参じます。土居似水は清宗の末の弟で民部少輔重信といい西園寺真光の御雇となっていましたが、土居一族自刃の後は出家して『似水』と名乗っていました。こうして清良公は暫しの平和の中に領民を大切にする国造りをされて行くのですが、土居似水の生き方にしても善家六郎兵衛の生き方にしても清良公の侍衆の生き方にしても、一つ一つが同様に教訓を与える為の物語である事がよく分かります。



□次回の予定


    次回は『巻七』となりますが、いよいよ『親民鑑月集』となりますので松浦郁郎先生に特別に解説をお願いしています。また12月は年末ですので参加者を中心に忘年会を企画したいと思います。そこで次回の『清良記を紐解く会』は開始時間を(17:30〜19:30)、忘年会を焼肉闘牛にて(19:30〜21:30)で行いますので是非お間違いなく、ご参加よろしくお願いします。予定日『12月        日(    )』








平成25年11月26日(火)『清良記を紐解く会』座長:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-08 14:00 | 郷土史
【二週間ほど前に『中村行き』の現地研修を終えたばかりでしたが、帰路バスの中で羽藤明敏会長から文化祭の出展を頼まれ、現地研修を記事に伊井事務局長と二人で連日徹夜。展示物を準備したのが思い出されます。また文化祭をしながら清良記の紐解きも休みませんでした。研修を見て来たお陰で大変勉強もしやすくなりました。】


□三間史談会主催『中村行き』現地研修を振り返って


    平成22年度に現地研修をして依頼、2年も企画倒れになって来た『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修でしたが、本年度は若手に企画立案実行を任せて欲しいという提案をさせていただき、遂に『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修を実現できたことは誠に感無量の出来事となりました。『清良記』は三間の宝であり『土居清良』は三間の誇る戦国武将です。その清良記に記述されている清良公土佐落ち所縁の土地を尋ねることは、今後の清良記研究にとって非常に意義のあることと言えます。

    先ず訪ねた四万十市の竹島地区は、清良公が領地した『高島』ではないかという思いからの訪問でしたが、後日に竹島にある金亀山菩提寺の和尚から竹島の史料としていただいた『敷地軍記』の中に竹島が明らかに『高島』であったことが明記されており、また『敷地軍記』の評議をした一條家の家老が土居宗珊であったことが分かり、宗珊が土佐一條家の古くからの家臣であることも確認できました。故に竹島地区は清良公とはけっして無縁な地ではないのです。

    今後の研究課題としては『土居宗珊の人となり』、また『土居宗珊と小松谷寺殿と一條康政の関係』について研究をしたいと思います。土居宗珊は一條家の筆頭の家臣であったと言われており、一方、一條康政は一條家の執政官であったと言われています。この二人は同時期の人物であり、関係がなかった筈がありません。あるいは二人が同一人物である可能性も捨てきれません。今後は『長宗我部地検帳』や『敷地軍記』を中心により研究を深めて課題の究明をして行きたいと思います。


□清良記を紐解く会『巻の五』


    今回の紐解きは先日『清良公土佐に落ちらるる事』の現地研修でも訪問した『不破八幡宮』が舞台となります。清良記では不破八幡宮の事を『中村八幡宮』と呼んでいます。不破八幡宮というのは不破村の八幡宮という意味ですが、京から土佐に下向した一條教房が京の石清水八幡宮から勧請して幡多郡の中心神社として創建したのですから、清良記が呼ぶように中村八幡宮が本当だったのかもしれません。
    さて時は永禄四年の八月十五日の中村八幡宮の祭日の前夜となる宵宮祭のこと。中村八幡宮では宵の相撲大会が開かれていました。土居の侍達も多いに活躍し大勝して気分良く清良は屋敷に帰ります。すると後に相撲大会の会場目掛けて石を投げ込む者達がおり、男も女も神主までもが血を流す怪我を負わされるという事件が起こるのでした。
   誰の仕業かとなった時、どこの誰が言い出したのか土居の侍衆が怪しいと清良にその嫌疑が着せられてしまいます。その窮地を知恵を働かせて救ったのが土居近江守家忠でした。それはその次に行われる天神の祭礼の時に清良始め土居の侍を一人も祭礼の場へは出さず、もし石を投げ込む者がいればそれを真犯人として挙げようというものです。その為には真犯人を騙さなくてはいけません。土居の侍には『八幡の神事の礫打ちと人の沙汰する由ならば、今また天神祭に思う様打つべし』等と言いふらさせる念の入れようでした。
    しかしてその結末は案の定。二十四日の晩に三十人を越える礫打ちを捕らえることに成功。その内二十六人は近江守の謀に乗せられての犯行と判断されて放免に、内五人は八幡宮の礫打ちと分かり尋問すれば、同類三人が芋づる式に明らかになり、その宿主段兵衛は東郡の元親に成敗させ、八人の者共は真犯人として八幡宮の河原に磔とせられるのでした。
    この頃はちと不吟味にて不審申し掛け候、その段御免候え。若き衆はか様の事心に掛けられては悪しく候。かく申し晴らし候えば、尊家は少しも不審残さず候、その段は安並と江州に問われ候え。此度の尊家が咎めかど合いの申し訳には、兵法、軍法、底を叩いて教え申すべし。とありて、それよりは毎日、兵法の執り行い他事なく、かようにあれば、人のかねがね思いし心も変わり、いづれも用い奉りて、清良公今は重き人になりおわします。『用いる時は鼠も虎なり、用いざる時は虎も鼠なり』と言う事、実にこの時の言葉なり。と、 この件に関しては短気で有名な兼定も清良を召して謝られたと言います。



平成25年10月26日(土)清良記を紐解く会座長:松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-07 13:00 | 郷土史
三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』


□資料①『清良記』


巻の一の一。清良根源先祖の事より
『ああ土居家代々の武名挙げて数うべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を誰にか見せん。梅の花の散り惚れたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし』

巻の一の二。清宗繁盛の事より
『また土佐の幡多、一条房家は豊後大友と縁者ににり給い、度々この処へ手入れあるべき御企てなりしかども、須山よりこの地へ踏み入ることなし。掛りける所に房家、真光御和睦ありて、土居清貞の娘、清良の姉お初上臈を土州房家の弟近江守家忠に嫁しおわします。また河原渕の領主、河後の森政忠は後無しの人なればとて、房家の三男東小路法行の子息を養子に取り組み、法忠と名乗られし。他領よりかように親み寄り申すことは、悉く清宗の軍功によれり』

巻の二の四。真光、石城の加勢を呼び返される事より
御諚の如く某等、数年武士の真似を致し旗頭真光の御前にても人に知られ申すこと、単にお陰に御座候。今更その御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候えども、先年万年も長らえ申すまじ。例え長らえ候えども、大将を捨てて逃げたりなどと、万年までも悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく長らえて、奇怪不思議と浦島などがように候を人の申し伝えて尚悪名表れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えは、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。宗雲父子、かねて仁信深く、礼を厚くして専らに用い、有智の大将にて、下々まで掛かるとぞ見えし』

巻の三の五。石城くずれの事より
『大友、今威勢ある最中なれば、運尽くるとも大名なる故五年十年の内に滅亡ということはあるまじ。さてこの度、宗雲一類果てては三間、河原渕、板島、一辺に豊後へ従うべし。真光も大友の旗下になられんこと疑いなし。さあらばこの国を始めその他皆々、我が事をようやくせいさいにして、誰を頼みても長く浪人になりて、土居の家立て直ること遅かるべし。土佐一条尊家は大友の婿なり。思えば敵にして敵にあらず。さて、一条家の家老近江には、清良が姉婿の上に流石の武士なり。頼むと言わばよも如才はあるまじ。その上、豊後よりこのあたり支配ならば、海上を隔てては如何にも不自由にして治まりにくかるべし。大方は尊家の支配になりて、一条の申され次第たるべし。さようにあらば名ある者の末なりとて本地に帰すべきと思うなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『江州夫婦、御嘆きの中のお喜びとて、御馳走なかなか言葉にも及び難し。さて、一条殿へかくと申し上げられければ、内々、土居殿のこと頼もしき弓取りなれば、叔父近江を縁者に取り組み、名字をさえ所望せしに、これまた八幡の御恵みなりとてお喜びなされ、まず籾俵二百俵御合力あり。また、江州の積りをもって御知行進ぜらるべしとて、清良公へ御使いを遣わされ、その後ご対面なされ、種々御心入れの御馳走浅からず。その後、大かみ御案の如く、大友より尊家へご飛脚あって、南伊予の内、宇和の郡は悉皆一条殿ご支配になり、入り番の衆、皆土佐より仰せつけられしなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『その後、尊家より、まず浪人分とあって高島あたりにて百貫の領地を清良公へ進ぜられ、お松上臈上下四人、土居主水は大津の城へぞ上がりける。次郎もお城へ上がりしかども、清良公惜しみて次郎は呼び下ろしぬ。その年の暮れは高島岡の前という所にて越されける』

巻の六の四。清良公御帰城の事より
『永禄五年七月十日、清良公十七歳にして土佐の幡多高島をお立ちあり。各々名残惜しみて中村に出合い酒迎えすれば、その日も暮れ若藤に泊りて、十一日の晩、川崎泊りにて十二日の朝、須山をこえられければ、奈良摂津守、薄木三河守、その他古の諸将ら走せ重なり、随喜の涙を流して我先にと、足下を見れば倒るる者も多かりし』


□資料②土佐一条家


①一条兼良…応永9年5月7日(1402年6月7日) - 文明13年4月2日( 1481年4月30日
一条本家八代。500年に1人の才人と言われ、源氏物語注釈書『花鳥余情』等を著す。一条神社の主祭神。

②一条教房…応永30年(1423年)-文明12年10月5日(1480年11月6日
一条本家九代。一条兼良の嫡男。応仁の乱の時に土佐へ下向。

③一条房家…文明7年(1475年)-天文8年11月13日(1539年12月23日
一条教房の次男。土佐一条家初代となる。本山氏に敗北した長宗我部兼序の嫡男国親を庇護し、長宗我部家の再興を援ける。

④一条房冬…明応7年(1498年)-天文10年11月6日(1541年11月23日
一条房家の嫡男。土佐一条家二代。父の後を追うように二年後に亡くなる。一説には、重用していた敷地氏を無実の罪で自害させてしまった事を後悔して病死したとも言われる。

⑤一条房基…大永2年(1522年)-天文18年4月12日(1549年5月9日
一条房冬の嫡男。土佐一条家三代。智勇に優れ津野氏を伐ち高岡郡を所領した。戦国大名のような振る舞いが疎まれ、京の一条家から暗殺されたとも自殺をしたとも言われる。

⑥一条兼定…天文12年(1543年)-天正13年7月1日(1585年7月27日
一条房基の嫡男。土佐一条家四代。京の一条本家の養子にされていたが、父の死で土佐に戻され7歳にして家督を継ぐ。養父でもあった祖父房冬の弟房道が後見人となる。重臣土居宗珊を誅殺した事で信頼を失う。天正元年に羽生、為松、安並の三家老の合議で蟄居。天正2年に豊後臼杵へ追放されると、中村で家臣同士の内戦が起こり長宗我部が進駐。天正3年に洗礼を受けドンパウロと名乗る。同年四万十川の戦で長宗我部に敗北。天正13年伊予国の戸島で亡くなる。

⑦土居宗珊…生年不詳 - 永禄12年(1569年)、又は元亀3年(1572年)
土佐一条氏の重臣。一条氏の筆頭家臣で、智勇兼備の名将。兼定を必死に支えたが、主君兼定に聞き入れられず誅殺。中村市誌に『清良記』の土居近江守家忠が土居宗珊である事は確かとの記述あり。

⑧土居宗明…弘化2年9月7日(1845年)-昭和6年12月24日(1931年)
土居宗珊の末裔。軍医となり日清戦争にも従軍。後備陸軍三等軍医正従六位勲四等。帰郷後は中村の幼稚園設立や県立第三中学校等の運営に寄与したと言われる。江ノ村の『小松山長法寺』の境内に土居家墓地がある。

⑨一条康政…生没年不詳。
『小松山長法寺』を開基。宗覚とも小松谷寺殿とも称される。同寺にある宝篋印塔が一条康政の墓と言われている。康政は一条房基の弟で兼定の叔父に当たると言われてきたが異説あり。房基の死後兼定を支えて執権を握り兼定の放逸を諌めたが、聞き入れられず隠居したという。


□資料③神社仏閣


①一条神社:戦国時代に土佐一条家の中村御所であった場所。初代房家が祖父兼良と父教房を始め代々の先祖を祀る為に作った霊廟があったが、長宗我部元親に敗れた四代兼定が中村を離れてから花を咲かせなくなっていたという『咲かず藤』が、文久元年に300年振りに花を咲かせるという吉事が起って一条神社創立のきっかけとなる。創立は江戸時代文久2年(1862年)。昨年150年祭が行われている。


②不破八幡宮:一条教房が京から土佐に下向した時、石清水八幡宮から勧請し幡多郡の一宮とした。体育の日の前々日の祭礼では、初崎にある一宮神社から女の神様が船に乗り、不破八幡宮の男の神様と出会って結婚式をするという特殊神事を行う。蛮習があった土地に、京風の結婚式の習慣を根付かせる目的があったと言う。創建は室町時代中期の文明年間(1469年 - 1487年)。


③岩越四所神社:戦国時代の竹島村の領主岩越五兵衛を祭神として祀る。岩越五兵衛は一条の重臣であった敷地藤安が伐たれた時、敷地党として共に伐たれ焚死。後に祟りが起こり、不破八幡宮の祭礼日に竹島の前を通る船が沈没したと言われる。岩越五兵衛の死後は領主不在の地となる。現在は竹島神社を合祀して、竹島地区の中心神社となっている。地番を天神山城山と言い、竹島城の詰と思われる。


④竹島神社:室町時代に竹島村の領主岩越五兵衛によって勧請された神社。江戸時代までは天満神社であった為に、竹島神社のある山は天神山と呼ばれていた。天神山全体が戦国時代の竹島城であったと思われる。明治3年に竹島神社と改称し同5年に村社となるが、現在は岩越四所神社に合祀されている。昭和26年まで土居守蔵という神主がおられたが、土居宗珊との関係は不明。


⑤金亀山菩提寺:臨済宗妙心寺派の竹島村の寺。竹島村の寺は火事で消失していたが、明治27年に愛媛県大洲市の冨士山如法寺とのご縁をいただき、大洲市にあった末寺で当時廃寺となっていた金亀山菩提寺を竹島村の寺として復興させて今に至る。九州緒方家の磐珪和尚が住職となり中興の祖となる。金亀山菩提寺には岩越五兵衛の位牌を祀っており戒名は『崇福寺殿儀山将翁大居士』。


⑥小松山長法寺:戦国時代末期に一条康政によって開基された無宗派の寺。小松山は一条康政が小松谷寺殿と呼ばれていた事に由来。境内に一条康政の墓と言われる宝篋印塔や、中村市誌が土居宗珊の末裔として紹介している土居宗明の墓所がある。土佐一条家の執権を握っていたと言われる一条康政と、筆頭家臣であったと言う土居宗珊の末裔の土居家墓所が同じ長法寺にあるのは大変興味が唆られると言える。


□MEMO










□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』担当:松本敏幸(2013.10.14mon)


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-06 12:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん